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どこを探してもなかったもの
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厳選された一品のみの古書の森へ
ようこそ!
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店長日記
今回は手抜きです 夏が終わり、やっと涼しさの出てきた今日この頃、今年はダイビングと
山登りに夢中になろうかと思っています。
さてまたまた或る句誌に書いたものを転載しました。
五二 ベルン。一八九七年十一月十日。音楽に夢中になればなるほど、
私はこれでいいのかと心配になる。私には自分というものがわからなくなって
しまったのだ。私はバッハの無伴奏ソナタを弾く。バッハにくらべれば、
画家ベックリンなど何だというのか。苦笑せずにはおれぬ。
パウル・クレーの日記、クレー十八歳のときの書付である。この頃のクレーは
小説や詩を書き、また父母の色濃い影響もあったのか音楽家になりたいという
気持ちも捨てきれないでいた。
十九世紀末のスイスは、世紀末象徴主義運動の中、このベックリンや
クレーと同じスイスの首都ベルンで生まれたホドラー、ウィーンではクリムトなどが
活躍していた。
ヨーロッパ全体を覆った時代の転換期に特有な文化的な現象や気分の中、
十八歳のクレーはまだ無自覚なままベックリンをあざ笑っている。
福永武彦の小説「死の島」の題名にもなったベックリンの代表作でさえ、
クレーには何者でもなかったし、またその他の世紀末象徴主義運動に身を置いた
画家たちも意に介してはいない。だが、総点数九千の作品を残したクレーの出発点は
ここにある。
一九〇〇年の四月頃の日記、第九十三番目では
絵画こそ私のつくべき職業なのだーこの思いが、いよいよ確かなものになってくる
と書いている。そして一九〇〇年十月、ミュンヘン美術学校に入学し、
フランツ・フォン・シュトゥックの教室に入り、主としてデッサンを学び、
またツィーグラーに腐蝕銅版画の技法を教えられた。
そして翌年一九〇一年十月二二日から一九〇二年五月まで彫刻家の
ヘルマン・ハラーと共にミラノ、ジェノバ、ピサ、ローマなどで様々な芸術作品を
見てまわる。古代ギリシャ・ローマ芸術からルネサンス、そしてバロック、
また中世のロマネスク・ゴッシク芸術などに圧倒される自分を感じつつ、
二九四で、
私は古代ギリシャ・ローマの偉大な文化と、そのルネッサンスを概観できるように
なった。ただこれらは、われわれの生きている時代とはなんら芸術の上で関連が
ないように思われる。いま反時代的な活動をしても、それはただの荒唐無稽だと思う。
(中略)とまれ、私は、野獣のように反抗するであろう。
と書き、三七四では
他日、自然を私のそのときどきの造形力に直接翻訳する実験をしてみようと思う。
とクレーはイタリア芸術に圧倒されながらも、少しずつ自分を確立させてきている。
そして帰国直後の日記、回顧四二九では
イタリアでは、造形芸術の建築的なものー私の関心はあくまで抽象芸術であった。
と記しながら、四三〇で
亜流の時代に生きなければならないことを考えると耐え難い。イタリアでは、
この思いに溺れて、なすすべを知らなかった。いまは、この考えを捨て去るように
毎日努め、徒弟として右顧左眄せず謙虚に学んでゆきたいとおもう。
と亜流への嫌悪を滲ませ、また自己の芸術的態度の出発点を見極めている。
そして更にクレーの凄さを物語る言葉がある。
とまれ、この俺という自我はゆるぎないのだ、と内なる声は不遜にも叫ぶ。
なぜならば、自我が大きく成長してゆくとき、まわりのブルジョワ世界は無慙にも
崩壊し行く運命にあるのだ。これは嘘いつわりない。
パウル・クレー、実に二十三歳のときであり、すでにミュンヘンの美術学校に
肌が合わず退学している。このイタリア旅行は、学校教育では得られないものを
クレーに与え、クレーの芸術的世界を広げさせた。その自覚が、ブルジョア世界の
崩壊を予感させたのでる。 ブルジョワ世界の崩壊とは、いってみれば芸術の
ブルジョワ革命と言い換えられ、自らが約一九〇〇年間の芸術的伝統を崩壊させて
見せるという意気込みである。
事実その後のクレーは銅版画やガラス絵などを描き、一九一四年まで
ほぼ毎年個展を開き、ようやく世界の関心を集め始めた頃、この年のチュニジアへの
旅行で一大転機を迎える。ことにチュニジアの中心地カイルアンの風景は
色彩と光を開眼した地である。
第三の日記の九二六の四月十六日に
なにか知らぬが、心深く、なごやかに染み渡るものがある。それを感ずると、
私の心は安らぐ。齷齪するまでもない。色は私を捉えた。自分のほうから色を
探し求めるまでもない。色は私を永遠に捉えたのだ。色と私は一体だ。
クレーの色彩豊かな作品はこのときに始まる。すでに一九一四年、非具象画家
カンディンスキーやマルクたちと知り合い、ブラウエ・ライター(青騎士派)として
第二回から展覧会に参加しており、この頃から抽象絵画に踏み込んで行き、
それは同時に線描の理論へと進化していく。一九二〇年に完成した『創造的信条』の
中にある
線描が純粋であればあるほど、いいかえると、線的表現の基礎となっている
形式的要素に重点がおかれればおかれるほど眼に見えるものを写実的に
再現することがなくなって来る。線描の形式的要素と、ここでいっているのは
点、線の、平面の、空間のエネルギーのことである。
と言い抜いている。
また一九二〇年クレーのもとにバウハウスの設立者たちから一通の手紙が届く。
この頃の造形の理念は世代間で大きく相違し、動揺していた時で、クレーは
熱望を持って迎えられている。以後十二年に渡ってクレーは教壇立ち、後進の指導を
行い、また自分の造形芸術論と一体化した芸術を完成させていく。
ニ十世紀初頭、パリではなく主にミュンヘンを中心として、その後の二十世紀
芸術の魁となった青騎士派とバウハウス運動。しかも従来の伝統的手法も
時代的手法も取らずに今日の芸術の基礎となった二つの運動の中に
パウル・クレーはいたのである。
一九〇〇年、クレーはスイスのベルンから旅立ち、漱石は横浜から旅立ち、
両者に関わりはないものの、クレーは世界的な抽象画家として作品を残し、
漱石はその作品の表現方法で、その後の近代作家が取った表現手法を
全て描いて見せた所に日本文学の世界性があると思わせる。
画像はクレーの『Senecio 「セネシオ」』
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