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店長日記
漱石の街を歩く 今年はまだまだ暑いっていってもいいでしょうか?
昨日などはTシャツでもOKでしたね。
さてある句誌からの転載です。
秋晴れの一日、前々から一度は、と考えていた漱石の生誕と終焉の地を
歩いてきた。西武線を高田馬場で降り、学習院大学方向へ歩いていくと、
日本児童教育専門学校の所で「志賀直哉旧居」と言う案内板を見つける。
志賀直哉の旧居といえば、一番最初に思い出すのは奈良の高畑にある家である。
看板を見ると、志賀直哉は何度も転居を繰り返しているとあり、
年譜を調べると、学習院初等科、中等科に通っていた事があるので、
その関係だったのだろうと後から推測できた。
その案内板を見てから、東京散歩と言う気分になってきて、学習院女子大学を
横に見ながら、箱根山を目指す。この辺り一体は昔戸山ヶ原と呼ばれていて、
今は戸山ハイツ・早稲田大学理工学部のキャンパスなどが出来て
都会ではあるが、その昔は鬱蒼たる林だった。
歩いている内に、確かこの辺りに漱石の知り合いだった戸川秋骨が
住んでいた事を思い出す。戸川秋骨は明治三年生まれ、
明治学院時代島崎藤村や北村透谷たちと知り合い雑誌『文学界』を創刊している。
その後東京帝国大学英文選科で学んで、『エマーソン論文集』などを出版している。
そして『そのまゝの記』の中で「霜の朝の戸山の原」と言う一文を書いている。
漱石はこの戸川に六通の書簡を送っている。
漱石と戸川の関係を思い出しながら歩いていくと、目の前に標高四十四・六mの
「箱根山」が見てきた。山手線内で一番高い人造の山と言われているが、
1分程度で登れる。
頂上の周りは木に覆われてしまい見通しは悪いが、それでも新宿方面の
高層ビルがそこに見える。案内板を見ると、尾張徳川家の下屋敷時代に
回遊式庭園「戸山山荘」として整備された際に、池を掘った残土を積み上げて
建造されたと伝えられている。
またこの辺りは、戸川が書いていたが、陸軍の用地として射的場や
練兵場などがあり、戦中は七三一部隊との関連が噂されて心霊スポットに
なっているとのことである。
漱石も一度や二度位、この箱根山に登ったことがあるかもしれないなどと
考えながら下って行くと、穴八幡宮が見えてくる。
一日ずれれば、流鏑馬の神事が見られたのだろうけど、むしろ静かな神の領域で
そっと手を合わせてきた。この穴八幡宮から僅かな距離の所に
「漱石生誕の地」があるのだが、見落としてしまって通り過ぎてしまった。
軽い傾斜の坂道で、夏目坂といい途中まで上って引き返して
やっとその碑を見つけることができた。
牛丼の吉野家の真前で、案内板が隠れてしまって見つけにくい所にあった。
この江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一番地)で漱石は慶応三年(一八六七年)
二月九日(旧暦一月五日)に生まれている。
黒御影石の石碑は生誕百年を記念して、弟子の安倍能成の手で書かれている。
夏目坂は馬場下から南東に上る坂で、漱石の父、直克が命名したと標柱にあり、
また『硝子戸の中』にその経緯が書かれている。この夏目坂の西に折れると
すぐの所に「誓閑寺」がある。
漱石は『硝子戸の中』では「西閑寺」として、『二百十日』では「寒磬寺」として
登場させている。また
釣鐘のうなるばかりに野分かな
という句も詠んでいる。
生誕の地から終焉の地に向う時、途中山鹿素行の墓という案内板を見つけた。
記憶に薄いが確か『硝子戸の中』中で読んだ思いがある。
それが「宗参寺」だったのかもしれないと思った。
山鹿素行、元和八年今の会津若松に生まれた江戸期の儒学者、軍学者である。
一般的には赤穂浪士の大石良雄が討ち入りの合図に使った
陣太鼓『山鹿流陣太鼓』と知れているが、その墓がこの宗参寺にあったとは
知らなかった。
『硝子戸の中』で漱石の飼い犬「ヘクトー」が行方不明になり、
近くの家の庭で死んでいた。その家から連絡がありこう書く。
私は下女をわざ々寄越してくれた宅が何処にあるか知らなかった。
たゞ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうと許考へてゐた。
それは山鹿素行のお墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のやうに、
古い榎が一本立ってゐるのが、私の書斎の北の縁から数多の屋根を越して
能くみえた。
漱石は古い寺とは書いていたが、「宗参寺」とは書いていなかったのだ。
その寺を後にして、漱石終焉の地へと足を運んでみる。しかし漱石公園として
整備されたと聞いていたのに何処にも見当たらない。
引き返してもう一度案内板を確認してみようかと思った所で、下った所に
漱石公園と小さく見えた。入って行ってみると、そこは裏口のような所で、
正面入口へ回ってみると、富永直樹に手懸けられた漱石の胸像があった。
小さな庵があり、初版本の復刻版が飾られていた。
庵の周りは家で埋め尽くされて当時の面影は全くない。だが、漱石はここで
間違いなく沢山の作品を書き、また木曜会を開き、多くの人が漱石を訪ねて
来たんだろうなどとあの漱石山房の面影を残すベランダの回廊に座りながら
感慨にふけった。
その漱石公園を出て、また高田馬場に戻るつもりだったが、神楽坂を降りて
飯田橋まで歩いてみたくなった。この神楽坂もまた漱石が足しげく通った坂道だった。
落語好きだった漱石は、坂中腹の和良店亭に出向き、談話『僕の昔』などで
語っている。またその地の名前藁店(わらだな)も『吾輩は猫である』や
『それから』にも名前が出てくる。
そして漱石は相馬屋製の原稿用紙を使っていた。たしか洋紙の原稿用紙は
相馬屋が初めて作った記憶している。その相馬屋も今はマンション一階で営業、
たしか三十年位前原稿用紙を買いに行っていた時はまだ木造の小さな店だった
ように思う。
その相馬屋から更に下ってくると、善国寺がある。
『坊っちゃん』に縁日のエピソードが書かれている。最後に神楽坂というと
思い出されるのが、漱石が姉たちとこの神楽坂を下り、神楽河岸から船に乗り、
神田川を下って柳橋から大川に入り、隅田川を上って吾妻橋をくぐり浅草に着き、
そこで行われていた芝居を見物して帰って来るという話である。
高田馬場から歩き、神楽坂を下って約二時間半の散歩、そこには沢山の
漱石の思い出が詰まっていた。それと同時にこの神楽坂から逆に馬場まで
昔よく歩いたことを思い出し、自分の青春もここにあったような気がした、
そんな秋の一日であった。
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