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店長日記
店長日記:53
漱石の街を歩く
2009年11月02日
 今年はまだまだ暑いっていってもいいでしょうか?
昨日などはTシャツでもOKでしたね。

さてある句誌からの転載です。

 秋晴れの一日、前々から一度は、と考えていた漱石の生誕と終焉の地を
歩いてきた。西武線を高田馬場で降り、学習院大学方向へ歩いていくと、
日本児童教育専門学校の所で「志賀直哉旧居」と言う案内板を見つける。
志賀直哉の旧居といえば、一番最初に思い出すのは奈良の高畑にある家である。
看板を見ると、志賀直哉は何度も転居を繰り返しているとあり、
年譜を調べると、学習院初等科、中等科に通っていた事があるので、
その関係だったのだろうと後から推測できた。

その案内板を見てから、東京散歩と言う気分になってきて、学習院女子大学を
横に見ながら、箱根山を目指す。この辺り一体は昔戸山ヶ原と呼ばれていて、
今は戸山ハイツ・早稲田大学理工学部のキャンパスなどが出来て
都会ではあるが、その昔は鬱蒼たる林だった。
歩いている内に、確かこの辺りに漱石の知り合いだった戸川秋骨が
住んでいた事を思い出す。戸川秋骨は明治三年生まれ、
明治学院時代島崎藤村や北村透谷たちと知り合い雑誌『文学界』を創刊している。
その後東京帝国大学英文選科で学んで、『エマーソン論文集』などを出版している。
そして『そのまゝの記』の中で「霜の朝の戸山の原」と言う一文を書いている。
漱石はこの戸川に六通の書簡を送っている。

 漱石と戸川の関係を思い出しながら歩いていくと、目の前に標高四十四・六mの
「箱根山」が見てきた。山手線内で一番高い人造の山と言われているが、
1分程度で登れる。
頂上の周りは木に覆われてしまい見通しは悪いが、それでも新宿方面の
高層ビルがそこに見える。案内板を見ると、尾張徳川家の下屋敷時代に
回遊式庭園「戸山山荘」として整備された際に、池を掘った残土を積み上げて
建造されたと伝えられている。
 またこの辺りは、戸川が書いていたが、陸軍の用地として射的場や
練兵場などがあり、戦中は七三一部隊との関連が噂されて心霊スポットに
なっているとのことである。
 漱石も一度や二度位、この箱根山に登ったことがあるかもしれないなどと
考えながら下って行くと、穴八幡宮が見えてくる。
 一日ずれれば、流鏑馬の神事が見られたのだろうけど、むしろ静かな神の領域で
そっと手を合わせてきた。この穴八幡宮から僅かな距離の所に
「漱石生誕の地」があるのだが、見落としてしまって通り過ぎてしまった。
軽い傾斜の坂道で、夏目坂といい途中まで上って引き返して
やっとその碑を見つけることができた。
 牛丼の吉野家の真前で、案内板が隠れてしまって見つけにくい所にあった。
この江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一番地)で漱石は慶応三年(一八六七年)
二月九日(旧暦一月五日)に生まれている。

 黒御影石の石碑は生誕百年を記念して、弟子の安倍能成の手で書かれている。
夏目坂は馬場下から南東に上る坂で、漱石の父、直克が命名したと標柱にあり、
また『硝子戸の中』にその経緯が書かれている。この夏目坂の西に折れると
すぐの所に「誓閑寺」がある。
漱石は『硝子戸の中』では「西閑寺」として、『二百十日』では「寒磬寺」として
登場させている。また

 釣鐘のうなるばかりに野分かな

 という句も詠んでいる。
 生誕の地から終焉の地に向う時、途中山鹿素行の墓という案内板を見つけた。
記憶に薄いが確か『硝子戸の中』中で読んだ思いがある。
それが「宗参寺」だったのかもしれないと思った。
 山鹿素行、元和八年今の会津若松に生まれた江戸期の儒学者、軍学者である。
一般的には赤穂浪士の大石良雄が討ち入りの合図に使った
陣太鼓『山鹿流陣太鼓』と知れているが、その墓がこの宗参寺にあったとは
知らなかった。
 『硝子戸の中』で漱石の飼い犬「ヘクトー」が行方不明になり、
近くの家の庭で死んでいた。その家から連絡がありこう書く。

 私は下女をわざ々寄越してくれた宅が何処にあるか知らなかった。
たゞ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうと許考へてゐた。
それは山鹿素行のお墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のやうに、
古い榎が一本立ってゐるのが、私の書斎の北の縁から数多の屋根を越して
能くみえた。

 漱石は古い寺とは書いていたが、「宗参寺」とは書いていなかったのだ。
その寺を後にして、漱石終焉の地へと足を運んでみる。しかし漱石公園として
整備されたと聞いていたのに何処にも見当たらない。
 引き返してもう一度案内板を確認してみようかと思った所で、下った所に
漱石公園と小さく見えた。入って行ってみると、そこは裏口のような所で、
正面入口へ回ってみると、富永直樹に手懸けられた漱石の胸像があった。
小さな庵があり、初版本の復刻版が飾られていた。
 庵の周りは家で埋め尽くされて当時の面影は全くない。だが、漱石はここで
間違いなく沢山の作品を書き、また木曜会を開き、多くの人が漱石を訪ねて
来たんだろうなどとあの漱石山房の面影を残すベランダの回廊に座りながら
感慨にふけった。

 その漱石公園を出て、また高田馬場に戻るつもりだったが、神楽坂を降りて
飯田橋まで歩いてみたくなった。この神楽坂もまた漱石が足しげく通った坂道だった。
落語好きだった漱石は、坂中腹の和良店亭に出向き、談話『僕の昔』などで
語っている。またその地の名前藁店(わらだな)も『吾輩は猫である』や
『それから』にも名前が出てくる。

 そして漱石は相馬屋製の原稿用紙を使っていた。たしか洋紙の原稿用紙は
相馬屋が初めて作った記憶している。その相馬屋も今はマンション一階で営業、
たしか三十年位前原稿用紙を買いに行っていた時はまだ木造の小さな店だった
ように思う。
 その相馬屋から更に下ってくると、善国寺がある。
『坊っちゃん』に縁日のエピソードが書かれている。最後に神楽坂というと
思い出されるのが、漱石が姉たちとこの神楽坂を下り、神楽河岸から船に乗り、
神田川を下って柳橋から大川に入り、隅田川を上って吾妻橋をくぐり浅草に着き、
そこで行われていた芝居を見物して帰って来るという話である。

 高田馬場から歩き、神楽坂を下って約二時間半の散歩、そこには沢山の
漱石の思い出が詰まっていた。それと同時にこの神楽坂から逆に馬場まで
昔よく歩いたことを思い出し、自分の青春もここにあったような気がした、
そんな秋の一日であった。





芭蕉・素龍・柳沢吉保
2009年10月10日
早くも10月ですね。
景気はますます悪くなってきて、食べるの必死です。
でも、頑張りましょうね!
さて今回もある句誌からの転載です。



埼玉県三芳町のホームページを見ると

 元禄七年七月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、
幕府評定所の判断で、川越藩の領地であることが認められました。
これにより川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し

とあり、

 開発が始まってから二年後の元禄九年五月に検知が行われ、上富九一屋敷、
中富四十屋敷、下富四十九屋敷の合計百八十屋敷の新しい村々ができあがりました。これが三富新田です

とある。加えて

 吉保は野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうと考えましたが
実現にはいたりませんでした。そこで、三富全域で十一ヶ所の深井戸が
掘られて数件が共同で利用することとなりました。

とある。

 これが社会科の教科書等に出てくる江戸元禄期の有名な新田開発であるが、
この新田 開発と灌漑用水の設置が、芭蕉の奥の細道への隠されたもう一つの
目的ではなかったかという、根拠はないが面白い推論に導いてくれる。

元禄期、家康から四代続いた幕府の財政は困窮化し、柳沢吉保は勘定奉行に
荻原重秀を起用して貨幣改鋳を行い、物価の高騰に伴い米価も高騰したが、
新田開発により幕府の幕領地域の拡大は逼迫した幕府の財政を補強し
安定化するのだが、以後日本各地で新田開発が行われ、見沼代用水、
玉川上水など開発が行われた。

所でこの柳沢吉保だが、万治元年、上野国館林藩の藩士・柳沢安忠の長男に
生まれ、その藩主だった綱吉に小姓として仕え、綱吉が五代将軍になると、
元禄元年新設された側用人に就任することとなる。
その後、元禄七年吉保は川越藩主となり、長年係争を繰り返してきた
三富が川越藩領となり、元禄七年新田開発に着手する。
 この三富の地層は関東ローム層の下に厚い武蔵野砂礫層があり、
滞水層がなく地下水位が低いために地下水をくみ上げることが非常に難しかった。
そこで吉保は箱根ヶ崎の池から水を引こうとするのだが、今現在まだその名残が
所沢の都市水路「砂川堀」に残っており、そのほとんどが都市水路として
暗渠になっている。
 その後東京都の水源として昭和二年に完成した狭山貯水池によって
寸断されてはいるが、今の水源近くを辿って見ると、途中には幾つもの大きな
遊水地が作られ、非常時の水量の多さを語っている。
昭和四十九年の『広報ところざわ』の中の所沢の自然を見てみると、
市の文化財保護委員の小沢は

 吉保がこの流れを上新井で北に向け、所沢新田、神米金、下富と掘り進んだ時、
責任者の急死で断念

とある。
 これにより吉保は先の「三富全域で十一ヶ所の深井戸が掘られて」とあったように、
深井戸を探し当てることで新田開発に成功するのである。
 さて松尾芭蕉だが、伊賀上野に生まれ、主人の良忠(俳号は蝉吟)に仕え、
その良忠と共に北村季吟に師事して俳諧の門に入っている。寛文六年主の良忠が
没することで仕官の道を絶たれ、延宝三年江戸に上っているのだが、
寛文六年以後数年、芭蕉の詳細は判っていない。
 先の萩原版『おくのほそ道』で指摘した和・漢・仏の豊富な読書量はこの時期
京都の北村季吟を始めとして仏門等の出入りで身に付けたのではないかと
推測される。その季吟門に柏木素龍がいたのである。
 その素龍だが、更に詳しく調べてみると、江戸浅草自性院で住職をしており、
俳号は全故・素龍で北村季吟・北村正五に師事し、和歌と書道にも通じていた。
正徳六年に亡くなっていることが判っている。
 芭蕉と幾つ年齢が離れていたのか分らないが、おそらく阿波生まれの素龍は
京都で季吟に師事し、また仏門に入って、芭蕉とも京都時代に親しくしていたもの
と思われる。
 その素龍は、柳沢吉保に和歌の指南役として仕えている。吉保のサロンには
この他に儒学者の荻生徂徠、儒学者で書家の細井広沢などがいて、吉保に
文治政策を提言している。

さて本題だが、森川許六の『風俗文選』に

 壮年時辞官遊武州江戸。風雅為業。号青。乃誹諧正風躰中興祖也。
嘗世為遺功。修武小石川之水道四年成

とある。
 許六はここで小石川の修復工事に四年間携わっていると書いている。
最近の調べでは、水道工事に携わったというよりも、水道管理者だったのでは
ないかといわれている。確かに神田上水の工事に携わったと言われているが、
神田上水の工事は芭蕉生誕以前の元和六年から始めれて、寛文六年には
完成している。寛文六年は芭蕉にすれば履歴不明の時である。

 これとは別に芭蕉の門人に向井去来がいる。去来は長崎生まれで、
父は医学者であり、芭蕉とは貞享元年、宝井其角を通して知り合っている。
その去来から長崎の話を聞き、芭蕉は長崎に行きたい思いがあった。
それはまた芭蕉が尊敬してやまなかった井原西鶴の代表作『好色一代男』の
世之助が長崎の丸山を最後に海の彼方にあるという女だらけの「女護が島」を
めざして船出し、それきり消息が絶えたという所に通じている。
 西鶴の女護が島は文字通り女護が島だが、芭蕉が目指していたのは、
実は長崎ではなく、その彼方にあるオランダだったのではないかと推測される。

 芭蕉は『野ざらし紀行』の富士川を渡る場面で捨て子に出会う。元禄三年幕府は
確かに捨て子禁止令を出しているが、それとは別にこの捨て子は実は世之助が
捨てた子どもを登場させたのではないかと思う。
それほど芭蕉は西鶴を尊敬していたのである。その西鶴が行くことの出来なかった
オランダへ芭蕉は足を伸ばしてみたかった。
 その為に芭蕉は知己だった素龍を通して柳沢吉保にその思いを伝え、
柳沢はいずれ川越藩領となるであろう三富開拓の、水源確保のために芭蕉の
水道管理の技術を砂川堀で役立たせようとしたのではないだろうか。
更にその技術を向上させるために俳諧紀行を目指す芭蕉に仙台の灌漑用水の
技術を調べさせたのはないだろうか。

 芭蕉のオランダへの旅の思いは奥の細道へ向う芭蕉と吉保の間で素龍を
通して取引があったのではないだろうか。
 元禄二年芭蕉は奥の細道への旅に出る。三富開拓は元禄七年にはじまり、
この年の十二月に芭蕉はこの世を去ってしまうが、砂川堀の工事断念は、
深井戸を掘り当てることで三富開拓は完成する。
皮肉にも芭蕉の死んだ年に開拓は完成することになる。
さてあまりにも牽強付会の話だが、こんな推測も楽しいのではないだろうか。

 というかあまりにも根拠のない話でありますが、なぜ芭蕉がオランダへ
行きたかったかは、あえて伏せておきます。
さらに今回の文章にはこれまでと同じ視点・方法を使っています。
いずれ近いうち『傷だらけの漱石』を書いて締めくくろうかと思っていますが、
それは「野分」と言う作品について書いた時と同じ視点です。
どうやって同じ視点をねじれた方向から見るかということです。


俳句は俳句になっておらず、さすがに師匠から呆れられました。
ですよね・・・






追悼・熊田千佳慕
2009年09月03日
9月に入り、肌寒くなってきましたね。
今年はあまり夏を実感しないまま過ぎてしまいました。
ダイビングに行きたかったけど、今の景気ではちょっと・・・
でも、そんなことを考えず、グングン進んで行きたいですね。
皆さんも頑張ってください。

さて今回も転載したものを・・


 あの熊田千佳慕さんがこの八月十三日誤嚥(ごえん)性肺炎のため
横浜市の自宅で亡くなられた。九十八歳だった。
 熊田さんといえば、「ファーブル昆虫記」の虫たちを渾身の思いで描いた方と
知られている。きっと思い半ばの逝去だったに違いない。

 先日書店でたまたま手にした雑誌にその熊田千佳慕さんと女性アナの
山根基世さんとの対談が載っていて、その対談が非常に興味深く、
滅多に雑誌など買ったことがないのに熊田千佳慕さんの言葉が
忘れられずに記念もあって購入してきた。

 その熊田千佳慕だが、簡単な年譜を見てみると、1911年横浜に生まれている。
本名は五郎、父は耳鼻科医で、兄は精華といい、詩人である。
1929年東京美術学校の鋳造科に入学、1933年、兄の精華の親友だった
山名文夫に師事、卒業を待たずに名取洋之助の日本工房に入社している。
同僚のカメラマンだった土門拳たちと数々のデザインの仕事を手がける。
そして戦後は絵本作家に転進している。

 さて今回特に興味があったのは、先に秋野不矩について書いた時、
不矩がこの世を去ったのは九十三歳、この熊田は九十八歳、共に高齢まで
仕事をされて来たということがあって、熊田はその辺をどのように考えていたのかと
言う疑問があったのだ。熊田はいう。

 そうですね。七十代が十代で、八十代が二十代、今は三十代

 と山根に答えている。
 実はその前に七十代の時、1981年熊田はイタリアボローニャ国際絵本展に
招待されて作品を発表して後、食事やものの見方が変わったと言っている。
そして更に、熊田は、

 八十代は人間がいちばん成長する時代じゃないかな

 と答えている。そして読売新聞の一面に出た老いの神秘と言うテーマに沿って
発表された時のことを追憶しながら、熊田は

 僕は特別な薬を飲んだり、体操したり、色々やって百になりたいなんていう
思いは全然ないんですよ

 といい、山根の「ただ絵を描きたいと言う?」と言う言葉に、熊田は

 そうなんです。誰かが生かしてくれるんですね。

 と答える。
 このサラッとした答え方に熊田のこれまでの人生が詰まっているように思える。
熊田は七十歳の時のボロニャ原画展をきっかけに食事の嗜好まで変わったといい、
野菜類をほとんど食べなかったのにサラダを食べるようになり、また精神的にも
物がよく見えるようになった言う。そして

 八十になるとものがもっとよく見えるようになった

 と確信に満ちた言葉を口にする。
 この熊田の言うものが見える、ものを見るというのは彼なりの方法がある。
昔テレビで特集された熊田の姿が未だに頭に残っている。
熊田は道路に腹ばいになり、ひたすら虫を観察し続けていた。そんな行路病者の
ような姿を危ぶんで、通りがかりの人に何度も救急車を呼ばれたと言っていたが、
熊田は

 見て、それから見つめて、最終的に見極める。それがぼくの一つの信条。

 だと言い、土門拳に仏像の写真を撮らせた時、土門拳が落胆して奈良から帰り、
「写真が一枚も撮れないと」しょげ返ってる姿に、熊田は道具をすべて置いて
行っちゃって、

仏像の前に一日中座って仏像とにらめっこすれば、
必ず向うから教えてくれるから

と伝えたと言うエピソードを漏らしている。
 熊田のものを見る方法が、世界的な写真家、土門拳を育てたと言うことが
よく分かるし、その後の土門の作品を見れば、ただ単に学術的な視点だけではない
特異な視点から仏像を取り続けた土門拳の力量のすごさまで思いいたされる。
更に熊田は山根基世の「ただひたすら見る?」という質問に答えてこういう。

 ええ、二つの目のレンズと心のレンズ、三眼レフなんです。

 実際我々がものを見ると言う時、この熊田ほど時間を割いて徹底的に
見続けたことがあっただろうか。虫の関節、羽毛、羽の形や色彩、目の形、
脚の形や長さ、色彩、胴体など熊田が寝転がってひたすら見続けたようには
見ていないのではないだろうか。熊田はスケッチ一つしないで見続けた。
それは彼が言う、

 小さい人に与えるものは嘘は絶対しちゃいけない

 と言う所に熊田の信条と描く態度が極まっているように思える。
 熊田が『ファーブル昆虫記の虫たち』を描き始めたのが、六十代で
一巻に十二枚の絵が書かれている。そして今年五巻目が出版されたのだが、
昆虫記六十一番目ということらしい。五巻目という意味だろうが、その五巻目に
十年の歳月をかけたと言っている。いかに熊田が見ることの大切さを大事に
してきたかを語っている。

 熊田は九十六歳の時、新しい画法を二つも見つけたともいう。
ここにも熊田のあくなき探求が見て取れるのだが、熊田の生きると言うよりも
描くと言うことで、神に生かされ、描き続けた人生があったように思う。
描き続けることが生き続けることにつながっていたのかもしれない。
秋野不矩が九十四歳で亡くなり、熊田が九十八歳でこの世を去る。熊田の言葉を
借りれば神によって生き続けされた人生だったことを思えば、遅い出発も
また神の選択だったのかもしれない。
 秋野不矩、熊田千佳慕、出発は遅かったもかもしれないが、晩年まで人には
真似の出来ない、確固とした自分の世界を作り上げていた。
そうして神に召されていったのかもしれない。

合掌


*すごいですね!七十代が十代で、八十代が二十代、今は三十代
90代で30代の気持とはすごい!
50代なんてまだまだひよこ?生まれてもいないか?。自分が出来ていないと
いうことかもしれない。強い勇気を貰いました。


萩原版『芭蕉おくのほそ道』のこと
2009年08月14日
やっと夏らしい暑さが戻ってきて
世の中はお盆で帰省でしょうか?
自営業は不自由業だから、片時も休めないです。

今回もある句誌に書いたものの転載です。

 いま手元に萩原版『芭蕉おくのほそ道』がある。
岩波版ではなく、あえて「萩原版」と書く所に意味がある。嘗ての岩波版は
あの薄い文庫で、付録に曾良の随行日記があっただけである。
この萩原版はこれに加えて、「奥細道菅菰抄」そして「芭蕉宿泊地及び天候一覧」、
「おくのほそみ道行程図」「主要引用書目一覧」、そして索引、解説が盛り込まれている。
1979年(昭和五十四年)の発行である。

この萩原恭男という校注を施した人の履歴だがほとんど判らない。
萩原井泉水の息子だろうか、それとも江戸期の歌人であり、
また「源氏物語評釈」を著わした萩原広道の孫に当たる人なのか、
調べてみたが全く判らない所である。
辿り着けるのは大東文化大学で教鞭をとっていたと言う所までである。

 さて敢えて何故この奥の細道という芭蕉の文庫版を萩原版と唱えるのか、
見ていってみよう。
 芭蕉の奥の細道の旅は元禄二年の三月に始まり、同年八月に大垣に到着、
九月六日に伊勢長島に泊っている。そして五年後の元禄七年の十月に芭蕉は
五十一歳でこの世を去っている。
 萩原版には「おくのほそ道」が終わると、跋文があり、素竜書とある。
そして参考として「明和七年井筒屋再版本奥書」あり、去来奥書として、

〈此巻は、古師芭蕉翁の紀行にして、素竜書す〉

とある。門人の去来が
井筒屋版の伝来の因縁を書いており、更に(蝶夢奥書)という頁で
井筒屋版に対する去来の発見の様子を手短に書いている。

〈 蝶夢〉とは京都に生まれ、義仲寺翁堂などを再建し、江戸中期芭蕉の
研究者として知られ、『芭蕉翁絵詞伝』が有名である。
 岩波旧版の底本が何であったか分からないが、萩原版はこの「素龍清書本」を
底本にしている。数年前、大阪から芭蕉真筆と噂される『奥の細道』が見つかり、
確か岩波からその影印版が出版された記憶があるが、
それ以前に萩原はこの素龍本を信頼していたようである。
萩原は解説で

 元禄七年四月に素龍が浄書したもので、芭蕉直筆草稿が伝存していない現在では、
本文として最も信頼すべき原本である

と言っている。

 その〈素龍〉だが、阿波の徳島に生まれ、柳沢吉保に仕え、芭蕉の『奥の細道』の
曾良本と言われる最終稿を基にして、柿衛本と西村本を清書したことで有名である。
さてこの萩原版の最大の特徴は「奥の細道菅菰抄」を取り入れた所にある。
その解題には、

 本書は中興期のすぐれた芭蕉研究家である蓑傘庵梨一(さりゅうあんりいち)に
よって書かれたもので

とあり、

自序によれば、(略)公用の都度四十まで芭蕉の足跡をほぼ実地に踏査、
六十に至って越前の丸岡に隠退して、その後本書を完成した

とあり、

以後の『おくのほそ道』の注釈で、本書に拠らぬものはないほどである

と書かれている。
また「著者梨一は高橋氏、(略)正徳四年(一七一四)、武蔵児玉に生まれた」とある。

 「奥の細道菅菰抄」の体裁だが、序があり、凡例、芭蕉翁伝と続き、
引用書目になる。先ほどの解題で「和・漢・仏にわたる百二十三部の引用書目を
駆使して」と書かれている通り、蓑傘庵梨一はその引用書目を列記している。
つまり梨一もそれだけの書目に目を通していたのだが、芭蕉自身も
目を通していたということが判る。

 例えば、老子経、詩経、周礼、前漢書、晋書、正字通、楚辞、円機活法、神異記
白虎通、西京雑記、本草網目、続日本紀、朝野郡載、大日経、大知度論、伝燈録、
後撰集、千載集、藤原系図、伊勢物語、歌林良材、名所方角抄、連歌産衣抄、
和漢三才図会などである。 正直恐ろしいほどの読書量である。
 今の時代の一般教養では全く追いつけない。梨一が列記した通りだろうが、
それ以上に芭蕉が和・漢・仏の書籍を読んでいた事を想像させる。
『奥の細道』だけに限らず芭蕉の著わした書物にこうした書目の影響が
強く反映されているということまで思い致される。

「奥の細道菅菰抄」の終わりで、先ほどの蝶夢は

菅菰抄いできて後、その奥に物書きそへよいふに、思ふことあり。
不読万巻書、不行千里区、無解少稜之詩、と実も奥の細道のおくふかき

と書いている。 蝶夢ですらそうなのか、と思う。
そして同じく奥の細道の奥深さに圧倒されてしまうのである。

 奥の細道菅菰抄」だが、有名な書き出しである「月日は百代の・・」から一字一句に
注釈を入れ、その出典も書き、奥の細道全文の注釈を施している。
そして最後に「奥細道附録・菅菰後考」を書いている。芭蕉の文章論であり、
特に俳文についてふれ、

此の細道の一篇など、打見には安らかにして、
七歳のわらべの耳にも入ながら、其意の微妙に至ては八十の老翁も
是をよく得ることかたし(略)東都の儒家南郭先生、此の細道の書を
電覧して三たびいたゞき嘆じて(略)はじめて驚き恥入ぬ

とまで書き残している。
 萩原版はこの「奥の細道菅菰抄」を使いながら、自分でも脚注を施し、
その脚注を補う意味で主要引用書目一覧を作っている。そして解説だが、
「おくのほそ道」までの芭蕉、『おくのほそ道』の文章について、『おくのほそ道』の
組立てについて、諸本についてなどが書かれている。

 この萩原版『おくのほそ道』に出会うことで、改めて『奥の細道』という俳文の
すごさを実感させられ、この俳文の前に俳文なく、これ以後も俳文なしと思わされる。
そしてこの文庫一冊を前にして思うのは、ここには図書館が詰まっているということ
である。言い換えれば、この中に図書館があるということである。
萩原版のすごさはそこにある。

 最近しきりに俳句をしたいなっておもう。ダダイストの芭蕉の俳句には
到底及びもつかないが、大好きな蕪村の句に少しでも近づけたらって
思うようになってきた。

わが師の歌集『快楽』から・・・

なほ残る 空の蒼さや 後の月

水底に 月の道あり 鮭還る

そしてわが句を・・

寒きわが 無名の影が 雑踏す

ゆさゆさと 孤を鑑みる 夏木立



新規オープンです
2009年08月01日
今日、四度目の店、オープンしました。
仏滅です。先月オープンしようかなって思ったら
その日も仏滅・・・
考えてみたら、今の商売は仏滅状態だから
この日でもいいかな??仏滅万歳!

さてわが師の俳句を・・
先日、店に来て、坐りながら二人で
3時間近く文学の話になってしまいました。
久し振りだったので、ちょっと興奮、楽しかったです。

その師の俳句を・・
これは角川学芸出版から出ている月刊誌、「角川俳句」に
載せられたものです。

夜の蟇

まつさらな本に指切る修司の忌

血は立つたままなほ眠る夜の新樹

その指に呪文吹きかけ薔薇を摘む

黐(もち)の花髪の先まで痒くなる

白地着て軽き妬心を子に覚ゆ

そのかみの波郷の小徑えごの花

長吐息すれば嗤ひて夜の蟇

1年ほど前「快楽」という句集を出されて
全句読ませていただいたのだが
今回の句はもうなんとも言えません。

指に吹きかけた呪文とはどんなものだったんだろうか?
寺山修司の初の戯曲、「血はたったまま眠っている」から
借りてきたと思うけど、師もまた昔演劇に情熱をささげていた時期があり
修司の思いは、未だに師の心のなかにあることを知らされました。

石田波郷没後40年を記念して、この秋、清瀬を中心に
石田波郷俳句大賞・新人賞を募集する。
その発起人として忙しく立ち回ってる師の大山雅由氏
この俳句大会が成功するよう祈っています。

好きな芭蕉の句

雲の峰幾つ崩て月の山


梅雨、明けましたね
2009年07月16日
梅雨が明けたとのこと、
外に出てみると、暑さが厳しいなどいうなまやさしいものではない。
もう気持が悪くなるような暑さだった。
こんな時は家の中で読書にかぎる。
もうかなり前に書いておいた草稿だったが、しまい忘れていて
更新も忘れていました。


 前回『政和先生追想録』から世に知られる人達のいわゆる「山嵐先生」の
回顧を拾ってみたが、今回は特にこの追想録の中で弘中又一と言う人の回顧録を
紹介してみたい。

 弘中又一は小説『坊っちゃん』の主人公のモデルとなった人と言われている。
明治六年(1873)十二月十日、山口県都濃郡湯野村第二八七番地、
現在の山口県徳山市大字湯野四一五二番地で、父弘中伊亮、母タメの長男として
生まれる。明治二三年一月、同志社普通学校入学。明治二七年六月二九日卒業している。
 そして明治二八年(1895)五月二七日 愛媛県尋常中学校へ赴任するのである。
漱石がひと月ほど早く同年四月十日に赴任しており、漱石と弘中はここに出会う
のである。弘中は松山に赴任する以前に戸沢タカと結婚して長男を生んでおり、
松山へは単身赴任だったのである。その後弘中は明治二九年十一月二四日
徳島県尋常中学校第二分校、現在の富岡西高等学校へ移動し
明治三三年四月四日、埼玉県第二中学校、今の埼玉県立熊谷高等学校に
着任しており、大正八年(1919)五月八日まで在籍していた。
 弘中が長い間、熊谷にいた事で漱石との書簡のやり取りがあったかもしれないと
調べてみたが、漱石全集の人物索引にも出てこないのである。

漱石が小説『坊っちゃん』の構想を得たのが明治三十九年三月十四日、
十七日から書き始めて、二十三日までに百九枚まで書いている。
漱石の松山赴任からざっと十年後、小説『坊っちゃん』は書かれたのである。
この十年の間、漱石の中の〈渡辺政和〉そして〈弘中又一〉とは何だったのであろうか。 

さて『政和先生追想録』の中で弘中又一が回想する〈渡辺政和〉は弘中の
文章力もあってか非常に興味深い逸話がたくさん書かれている。
ただそれが非常に長いため、本当なら全文をここへ記載したい思いにかられるのだが、紙数の手前そうも行かないのが残念である。
所々記載してみる。

 夢のやうな日清戦争のあった明治二十八年四月、僕と漱石とは同時に松山に来り
翌年三月同時に去った。それから十年(略)漱石が小説「坊ちゃん」を公にして、
この松山の一年間の事実を存分にスッパ抜いたが大体あの通りである。

 また更に進むと

 山嵐が怒ったやうな頭の持主を、校長が紹介して此れが渡辺政和君、
数学主任ですと云った時、此の坊主は天井に向って、やあ君が新任の人か、
チト遊びに来給へ、アハ、、、と後ろに反り返った。向かうから漱石がニヤリ笑って
眺めて居たが、其の儘小説に書いてしまった。

 と漏らしている。此の箇所などは弘中が指摘する通り、作品にそのまま反映されている。

 山嵐君は色々学校の事を聞かして呉れた。校長は高師出の狸爺で中々食へぬ
男である。
先年就任と共にやはり高師出の沼福二郎と云ふ腹心を教頭として連れて来た。
女のやうな声をする気障なやつで、年中緋ネルのシャツを着るから赤シャツと
綽名を付けてやった。

 更に進んでいくと面白くなってくる。漱石の『坊つちゃん』が先にあるから、
この弘中の逸話は『坊つちゃん』から持ってきて書いたのではないと思わせる位、
逸話と小説が符合している。例えば、

 「沼の赤シャツは特別の赤シャツで陰険極まり無く(略)隠れて芸者は買ふし良家の
処女にまで因縁をつけ」従来からいる教員には
難癖を付けて辞めさせ、自分の子分を引き入れて来て朞年つまり一年もしない内に
教員の大半を狸、赤シャツの同類で固めてしまったとも書く。

 其れで生徒が承知し無い。終に発してストライキとなった。(略)狸もいけ無いと
見せ、後任には誰の目にも立派と見える人物を揃えた。沼の後任には横地君、
英語の後任には夏目君、(略)横地、夏目君とも有名の仁だけあって月報八十円、
校長の六十円よりも二十円高い。

 と書いている。弘中はこう書いているが、
漱石招聘後、ひと月後に赴任した弘中がまるで自分が当事者だったような筆致で
書き、漱石招聘の理由まで付け加えている。

 この『政和先生追想録』が出版されたのが、昭和十年七月、弘中は昭和十三年の
八月にこの世を去っている。弘中は一体この原稿をいつ書いたのだろうか。
明治六年に生まれ、昭和十三年に亡くなるということは、凡そその年六十五歳位
だったろうか。弘中の「山嵐先生の追憶」という文は「渡辺政和先生溘然として
逝去せらる」という書き出しから始るから、やはり渡辺政和の逝去後、昭和十年に
刊行されて配られた『政和先生追想録』に合わせて書いたと見るのが妥当だろうが、
約四十年前の松山の教員室の出来事などをその場に居るかのように書くことの
巧みさに驚かされる。さらに

 山嵐君と歩きながら前日漱石が下宿をかはれと忠告した話をすると、(略)
それは夏目君が自分の経験から割り出したのだ。君が居る城戸屋の竹の間は(略)
城戸屋の憲法として素性の知れぬ風来坊はあの試験室に抛り込んで置いて、
翌日愛媛新報の辞令欄から其の客の俸給額を発見し、然る後身分相応の室に
換へる仕組である。夏目君も(略)翌朝の新聞に月俸八十円下賜と出たので、
校長様より上の御方、これはとおかみさんがびっくり仰天云々

と書いている。
 この弘中の追憶はまだまだ続き、更なる面白い逸話も沢山書かれているが、
当事者ではなくては書けぬ所も沢山あって、小説と事実の見事な符合
と思わせるような弘中の筆致である。
次回もこの逸話を拾ってみたい。

この12・13・14日と神田の展覧会、書窓会の人達と、郡上八幡
永平寺、東尋坊、そして近江八幡と旅してきました。
飲んでいるか、運転しているか、そして寝ているか・・・といったような
楽しいたびでした。
写真は郡上八幡城



新規店舗です
2009年07月03日
昭和57年7月3日だったろうか?
この日、貴龍堂は5坪の小さな店を開店しました。
あれから27年・・・
その間に3回の移転を経験しました。
元町の所では15年くらいはやるつもりでしたが、
様々な理由で断念せざるを得ず、この寿町への
移転となりました。
店を小さくして、また目の届く範囲での商売ができる
しかも初めの頃から考えていたシーンがそのまま
体現できるような店構えになりました。
商売にはつながらないかもしれませんが
それもまた・・・って考えています。
いつでもお気軽にお立ち寄りください。

尊敬すべき俳人、荻原井泉水の

空をあゆむ朗々と月ひとり 

店舗移転します
2009年06月19日
こんにちは
この度、貴龍堂は店舗移転します。
初めはマンションを事務所にして、倉庫で在庫管理
気軽にやるつもりだったのですが、どうしても店番が
やめられず、たまたま近くに理想的な場所が見つかり
そこへ移転することとしました。

貴龍堂のHPにある商品が手にとって見られるような
そんなギャラリーのような店を前々から考えていたので
この際、思い切って移転することとにしました。

元町は6月一杯で、その間展覧会などがあって
大変だけど、前向きに考えると
貴龍堂自体はドンドン進化していると思っています。

是非近くへお越しの節はお立ち寄りください。

今日はある1周年記念日・・・忘れられない日
そして桜桃忌ですね。


春・・・
2009年03月13日
弥生三月、
暖かったり寒かったり、春に三日の晴れ間なしというけど
今の日本そのもののようにくるくる天候が変化していく。
三月に入り、注文はガタガタ・・・これからどうなるのか
すこし不安な所である。
だから頑張るのだけど・・・
今回もある句誌からの転載です。


『政和先生追想録』という本がある。この政和先生とは漱石の『坊っちゃん』に
登場する〈山嵐〉のモデルになった人と云われている。
 この『政和先生追想録』だが、ネットで検索すると、知合いの同業である
神田の「あきつ書店」の白鳥さんしか在庫していない。
 昭和十年の刊行で非売品となっている。出版された冊数は極めて少なかった
のではないかと推測される。そのためこの『政和先生追想録』を元に〈山嵐〉の
モデルについて言及している書籍は皆無に等しいのではないだろうか。
最近の研究では様々な人物が〈山嵐〉のモデルとして登場してきているが、
今回はそのモデル論に言及するのではなく、この渡辺政和という人物について
追想録から拾ってみたい。

 年譜を見てみると、安政五年伊予松山で松山藩士の四男として生まれている。
漱石が慶応三年生まれだから、渡辺政和はおおよそ九歳年上である。
ちなみに安政五年は日米修好通商条約が締結され、安政の大獄の起こった
年でもある。また漱石と同じ慶応三年生まれには尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規
そして新海竹太郎などが居るが、紅葉・露伴などとはその文学観が全く違っている
所に不思議な風景を感じる。。

 明治五年十五歳で家督を相続し、その後明治九年愛知師範学校、十年には
大阪師範学校に入学し、明治十三年二十三歳の時、大阪の中学で五等訓導を
申し付けられ、教員生活がスタートする。
明治十九年上京して文部省の検定試験を受け、代数幾何学の免許を受けている。
明治二十一年のちの県立松山中学となる伊予尋常中学校の教諭に任ぜられている。
明治二十三年になると、上野公園内美術学校で後の京大総長、理化学研究所の
初代所長となる菊池大麓から幾何学の講習を受けている。

漱石は明治二十八年四月に高等師範学校と東京専門学校を辞めて、
四月七日に新橋駅を出発、四月十日には正式に伊予尋常中学校嘱託教員の
辞令を受けている。
漱石と渡辺政和がここに出会うのである。
漱石は四年生と五年生を受け持ち、生徒には真鍋嘉一郎、松根東洋城、
桜井忠温、片上伸がいた。

 さてこの『政和先生追想録』のなかで高浜虚子はこう書いている。

はっきりした言葉で無駄は一つもなく、それは丁度二点間の最短距離が
直線であるというやうな感じの説明であった。教壇に立たれ居る時の姿勢、
表情等も同じやうな感じであった。どこにも曖昧な影を認めることが出来なかった。

更に松山中学校出身の項で河東碧梧桐は、

政和先生ほど数学のうってつけな、そうして総てが数学的にといふよりも
幾何学的な、はつきり輪郭の出た人はいないやうに思ひます。(中略)
だから講義は、カキ餅を切るやうに、煉瓦を積むやうに、一分刻みに屡々
明晰であり、次第があり、これでわからなければお前達の頭がわるいのだと
叱りとばすやうな具合でした。(中略)何だか数学を教へられるより、
人間の本分を暗示される講義であった。

 と書いている。
 この二人を通して見ても、この渡辺政和という人物の人柄がよく伝わってくる。
さらに東京芸大を卒業し、三越呉服店の嘱託デザイナーとなり、アール・ヌーヴォを
意識したデザインを発表し、現代日本のグラフィックデザインの基礎を築いた
人物の一人と云われる杉浦非水は

 私は元来絵画の方面に興味を持つてゐながら、数学は割合好きであった。
殊に幾何が一番興味深く成績も良かったので、政和先生に対しての感情も他の
人達の怖い先生として頭に残ってゐない。だがあの剛骨な、素朴な態度が
どうしても漱石の『坊ちゃん』の山嵐のモデルであることは肯定出来るやうである。
(中略)人格の点から、皆が政和先生を山嵐に擬するのは無理もないと
私は思ふのであります。

 と書いている。
最後に松山中学の教員関係で、西原武雄という人はこう書いている。

 漱石の『坊ちゃん』中の山嵐のモデルは政和であると世間では能く言って居るが、
事実の如何は論外として、兎も角性格の描写に於いて山嵐と政和君との類似点が
極めて多い様に思われる。素朴の反面に親切心の深かった事や、物質的に淡白で
利害を超越して居た事などは実際の政和君に於いて左こそと思はるゝ節も往々に
見受けられるゝのである。

 この『政和先生追想録』は追想録というくらいだから、教員関係、交友、生徒など
約二百名の追想録が書かれている。また東京と松山で三回ほど座談会が持たれ、
その記録が掲載されている。残念ながら漱石側の資料を調べてみても、
書簡さえないのである。

 漱石は松山に赴任後、この渡辺政和と親しく歓談しているだろうが、
作家以前の夏目金之助としては書付さえ残していないのである。
ただモデルが如何であろうが、〈山嵐〉という登場人物にこの渡辺政和の
生き方や生活態度、性格などが取り入れられた可能性は否定できない所である。

 作家の大岡昇平は漱石作品の中で一番好きだったのがこの『坊っちゃん』だと
言っていたが、『坊つちゃん』を読んだのがもうかなり昔で、これを機に読んで
みようかと思ったけど、あまり好きな作品ではない。
 人それぞれに山嵐のイメージがあるだろうが、実際の渡辺政和という人物を、
この追想録に書かれた姿から少しでも判っていただけたかと思う。



最近俳句にもっと力を入れたいなって思っています。
1日百句とは思うけど、専業でなければ出来ないですね。



春を感じて・・・
2009年02月15日
 早いもので、2月ももう半ば・・ですね。
こちらのHPの更新を怠り、そのままです。頑張らなくてはいけないのに
何故か切羽詰まっていないのが、馬鹿なのかな??

 今回も転載で、浅井忠のその二です。



前回触れなかったが、浅井忠の弟子の梅原龍三郎は『天衣無縫』の中で、

 正岡子規、夏目漱石等と親交のあった浅井は文人の面があり、(略)黙語、
木魚などと署名して戯画、大津絵などを多く描き、(略)楽焼きに絵づけする趣味は
祇園町石段下に専属の売店を、後の大友の女将、陶磁文学芸者といわれた
磯田たか女の経営する処となった。

 と書いている。
 専属の売店とは前回書いた『九雲堂』である。梅原は浅井の弟子だから
浅井と磯田の親交、そして漱石との親交についても詳しく知っていただろうに
残念ながらそこまで踏み込んではいない。
 だが、浅井と磯田の間を取り持ったのが実は梅原だったのではないか、
芸者遊びの好きだった梅原だからこそ安易な推測が出来るかもしれない。

 さて、浅井忠が正岡子規に宛てた書簡は三通である。明治三十三年五月二十日の
書簡はそのまま『ホトトギス第三号第九巻』に転載されている。全文を通して読んで
見ると、巴里万博で日本から送られてきた出品物は多くがまだ荷を解かれておらず、
会期が終わる頃にやっと解かれるのではないか、また日本の洋画も国画も
四畳半の座敷で鑑賞するようなものであり、

日本の出品には実に嘔吐を催し候

と書いている。
ただ織物のみ好意的に書かれ、

織物は先づ日本の出品の中にて比較的一番宜敷様見受候

とあり、だがそれも

折角の模様を地合でぶつこわしたる者や工手間を掛けて益マヅクしたる者多し

と嘆いている。
 そして日本の美術・工芸が駄目なのは、

日本の位置が余り欧州と遠かり過ぎて世界の広きを不知、西洋人に世辞を言われて鼻を高くして居る間は何事もだめと存候

と結論付けている。
 確かに中央公論美術から出ている『明治期万国博覧会美術品出品目録』を
見てみると、橋本雅邦「龍虎図」一面絹本着色であるとか川端玉章「四時ノ名勝」
四面絹本着色、また工芸の海野勝珉「太平楽置物」一点 銅・金・銀ほか、彫金・象嵌
などが出品されているが、目立ったものがない。国の威信をかけて送り出したものが
巴里万博では不評であり、特に日本美術が低く見られる結果となる。
浅井が常軌を逸して、言葉汚く日本美術を攻撃するはずである。しかも浅井は
本国への報告についても

手前味噌の偽りの報告のみにて出品者を誤らしめたる罪軽からずと存候

とまで書いている。
 この書簡の中で浅井は「陸翁へもこの寝言御咄し被下度」と書いている。
書簡全体が巴里万博についての記載のなかで、陸羯南へも話してくれとの文の
中に、元々浅井と子規の知り合う端緒がこの谷中に住んでいた陸羯南であった事を
暗示しているようである。現に京都新聞社の出した画集『浅井忠』の中の、周辺の人物略伝の正岡子規の項を見てみると、

 陸羯南の日本新聞社社員で、浅井忠とは写生説で結ばれ親交した

とある。
 さてこの子規宛への浅井の書簡には、身辺的なことは書かれていない。
パリで懇意にしていた和田英作始め、新海、久米、池辺などのついては
書かれていないのである。この辺りに子規と浅井の関係がぼんやり見えてくる。
 またその他の二通にも身辺的記述はなく、季節の挨拶程度の文面で終わっている。

 この明治三十三年五月二十日の書簡に答えて、子規には同年六月二十五日
付けの返信がある。すでに書いたようにこの書簡には封筒がない。その為に
子規自身が直接手紙を出したのか、漱石に預けてそれを漱石が浅井に手渡したのか
分からない所である。
 子規はこの書簡の中で、漱石には一切触れていないし、既出のように
中村不折についてかなり言及しているだけである。つまり浅井と子規、
その関係の中で共通する話題は、中村不折だけということが類推できるのでは
ないだろうか。子規が浅井に宛てた書簡が一通、浅井が子規に宛てた書簡が三通、
この書簡の少なさが二人の交友の全てを物語っているのではないだろうか。

 明治三十五年六月パリを発ち、ロンドンで漱石と会って話し、同年七月四日、
阿波丸に乗って神戸に上陸し、一旦東京へ帰るが、同年九月には
京都高等工芸学校の教授に任ぜられて以降、明治四十年十二月十六日、
五十一歳で亡くなるまで京都に住み着いている。
 そして漱石や子規たちと書簡のやり取りさえないのである。勿論、子規は
明治三十五年、九月十九日にこの世を去っているから書簡のやり取りはできない。
年譜を見ると、同年八月十九日に神戸に上陸して、八月二十七日、正岡子規を
訪ねている。そして九月七日頃、一家を挙げて京都へ移転している。
正岡子規の葬儀に参列したのかどうなのか。

 若い頃下谷金杉村に住み、翌年から下谷の根岸を中心として転居を繰り返し、
その間陸羯南を通じて子規と顔見知りになり、ロンドンで子規の親友、漱石とも話す。
下谷、ロンドン、京都を世界地図上で思い描きながら、この明治期の文人たちの
交友に思いをはせてみると、一期一会という言葉が浮かんでくる。

 今回まで資料がほとんどない中で、様々な角度から、漱石の二度の浅井訪問に
ついて調べてみたが、やはり結論は残念ながら分からないままである。
 ちなみに浅井にはパリにいる間には『巴里日記』があり、パリ郊外のグレで
過ごした時には『愚劣日記』がある。だがこのいずれも今では全くお目にかかれない。
この資料が手に入れば、少しは漱石と浅井、そして渡辺和太郎との関係が
見えてきたかもしれない。残念な所である。


どなたか『愚劣日記』の掲載されている「ホトトギス5巻4号」を・・・
最近わかったことですが

ホトトギス 第3巻4号 通巻36号 浅井忠渡欧送別会

ホトトギス 第3巻9号 通巻41号 巴里消息

ホトトギス 第4巻1号 通巻45号 巴里消息

ホトトギス 第5巻4号 通巻60号 愚劣日記

ホトトギス 第6巻4号 通巻72号 子規追悼

浅井忠の書いたものが載っています。
誰かお持ちでは・・・
ご連絡をお待ちします。





年初からつまらぬものを・・・
2009年01月11日
 今年は元日から仕事でした。
といっても、もう正月という意識はここ何年もなく、単なる冬休みくらいに
考えているので、当然注文が入れば、それに答えなくてはいけない。
まして今年は更に厳しさが増してくるはずだから、緊張感をもって
対処していかなければいけないと思ってる。恥も外聞もないです。
食べなくてはいけない・・・

 さて今回もある句誌からの転載で、浅井忠についての第1回めです。


先日、子規全集のうち「子規あての書簡」という別巻を手に入れた。
これには交友のあった秋山真之から渡辺正綱までと参考資料を含めた
総数六一二通が収録されている。中には漱石と親交の深かった山川信次郎の
漱石について批判的に言説している書簡もある。

 さて今回は浅井忠について最後の言及である。かねてより疑問だった
パリに住む浅井忠を漱石が二度ほど訪問している時、二人は出会えてのか
ということと、もしかして子規から手紙を託されてそれを手渡ししたのかと
言うことである。

 その前にこれまで浅井忠について書いておきながら全くその経歴を記して
おかなかったので、ここで年譜を見てみる。
 安政三年、江戸木挽町佐倉藩邸ないで生まれる。文久三年、父と祖父が
亡くなり家督を相続。明治八年、十九歳の時国沢新九郎の彰技堂に入門する。
翌年工部美術学校画学科に入学し、フォンタネージュに師事する。
この年、のちに国粋主義的美術運動を展開するフェノロサが来日する。
フェノロサを中心に岡倉天心などが東洋美術の優位を主張して、洋風美術の
排斥を唱えるのである。
文部省の図画調査会に於いて国粋主義からの圧迫を受け、浅井や
小山正太郎などの主張する洋式図画教育は敗れるのである。
ただこの時の文部省は毛筆画教育の国粋説は優位にあったものの、
鉛筆画手本の出版も進め、浅井は尋常小学校読本の手本を多数描いている。

 見落としていたのだが、石井柏亭の『浅井忠』の年譜を見ると、
明治三十一年渡辺和太郎の求めに応じて、渡辺和太郎に絵を描いている。
これはその後大震災で焼失してしまうことになるのだが、つまりこれ以前から
浅井忠と渡辺和太郎は知り合いの仲だったということである。
明治四十年にもまた和太郎に頼まれて新居の室内装飾をしている。
鳥羽僧正筆となる動物戯画を模様化して欄間絵を描いている。この二人の
出会いは子規の句会が始まりだったのだろうか。

 明治二十二年浅井忠が三十三歳の時、明治美術会が創立され、
評議委員に選ばれている。二十九年になると、黒田清輝や久米圭一郎が
明治美術会を脱退して、白馬会を結成。この白馬会を新派・紫派と呼び、
明治美術会は旧派と呼ばれて、人気は新派に集まるのである。

 明治二十九年東京美術学校に洋画科が新設されて、白馬会系の黒田清輝、
久米圭一郎などの画家たちが教授を占拠したために、浅井たちは勢いを
失うのである。
ただ明治三十一年岡倉天心たちの排斥運動がうまく運び、浅井はこの年
東京美術学校教授に任ぜられて、高等官六等、正七位に任ぜられている。
そして明治三十二年西洋画研究のため、二年間のフランス留学を命じられて、
三十三年神戸から神奈川丸に乗り、フランスへ旅たつのである。

 この時期の日本の美術会は白馬会系の人間たちとの主導権争いに
明け暮れていたため、浅井にとってパリ留学は非常に好都合なものだったに違いない。事実明治三十四年、弟の達三に宛てた手紙で、

 現今の日本の社会程イヤナものはなき哉と存候。(略)何しろ日本と西洋とは
総ての事があまり異なりて居るから一方に慣れるとどうしても衝突が起る。
総て西洋の方が実際的にして日本の方は空想的に出来て居る。
美術工芸など云ふ事は今百年斗りはトテモ旨く行く事はなかろうと思ふと、
小生等が当地に来て見て帰っただけが結句煩ひの種となりて、
国へ帰っては施す手段は少しもなき様に思ふと、見ぬ方が増しならんかとも
思ひ居り候。
(略)殊に美術家かとか文学者とか云ふものは咄しにならぬ腐った社会だから、
小生は今ではあきらめて、総て消極的でなんにもしないで是から社会を退て
遊んで仕舞んとの覚悟である。夫故京都へ引込んで陶器でもいぢって暫らく
遊ばん為転任の約束して置いた訳である。

 と漏らしている。
浅井は帰朝後、東京での人間関係の煩わしさを考えて、京都に出来た
京都高等工芸学校へ赴任、京都の聖護院で洋画研究所を開き、またその後
関西美術会で活躍し、津田青風、梅原龍三郎、安井曾太郎などの画家を
育てている。
そして弟子たちは帝展、二科会、国画会、春陽会に分かれていくのである。
ちなみに漱石が一九一五年大正四年春、二度目の京都訪問の時、
津田青風の兄である西川一草亭の案内で再び祇園を訪れ、
磯田多佳に出会っている。

漱石は四十八歳、多佳は三十六歳。京都祇園の芸妓をしていた多佳だが、
妓籍を抜けて四条通に『九雲堂』という陶器店を開いた時、浅井は人に頼まれて
図案を描き、浅井の図案の書かれた陶器がこの九雲堂に並ぶことになる。
その多佳は自分で絵付けをして出来た湯飲みを人づてに漱石へ贈っている。
漱石は日記に自分の愛読者たちが当時から京都にいることを書いていたが、
それが多佳女だったとは知らなかったのである。

その後多佳は母の経営していたお茶屋『大友』を継いで女将となる。
二度目の京都訪問で漱石が投宿したのが、賀茂川べりの旅館『北大嘉』。
多佳は川向こうの『大友』で、その多佳に津田青風の仲介により声がかかることになる。こうして漱石と多佳は出会うのである。

 漱石が多佳に与えた色紙に書いた句は

 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
 春の川を隔てて男女哉 漱石

話が逸れてしまったが、漱石、浅井、そして磯田多佳の不思議な縁である。
漱石はこの後身体を患って二日間寝込み、それを多佳が看病し、回復を
待って東京に帰るのだが、都合二十九日間にもなる京都旅行だったのである。
 巴里から浅井忠が子規に宛てた手紙について書くつもりが、長くなってしまい、
まだそこまで届かないうちに紙数が来てしまいましたので、
次回こそこの続きを ・・・




おめでとうございます。
2009年01月05日
新年、おめでとうございます。
ことしもどうぞよろしくお願いします。

去年のリーマンショックによる世界不況、
今年はその大きな余波が確実に現れてきそうです。
でもそれもまた自分には生きる活力になりそうです。
負けてはいられない。ズンズン先へ・・・
ひとりゆっくり、めげずにゆっくり・・
楽しみながらゆっくり・・・
終われないです。

今年も頑張りましょう!!
秋野不矩展での思い・・
2008年11月28日
 世界景気の後退とリストラの嵐を加速するかのように、冬の寒さが増してきて
同時に当店でも注文数の激減・・明日からどうなるのか分からない状況
せめてスイミングで時を忘れ、苦悩を剥し、ひたすら水に溶けて、水に遊んで
この世を乗り切って行きたいものだ。
今回もある句誌に書いたものの転載です。


 秋野不矩の展覧会を見てから、頭から離れないことがある。
一九六二年昭和三十七年、秋野不矩五十四歳でインドへ出発し、ほぼ毎年
一点か二点の作品を制作し、二〇〇一年にこの世を去るまでの、いや最後の
作品《ガンガー》を生み出すまでの四十年は何であったのか。
 ある意味五十四歳からの出発は余りも遅いのに、灼熱のインドを歩き、感じ、
考え、描き続けた四十年間、日本画史上最高傑作と言ってもいいこの最後の
《ガンガー》を生み出すまでのその四十年間の作品との対比を考えると、人間の
生命力や制作意欲そして発心力というような様々な思いを抱かせる。

 年譜を見ると、不矩は小学校の教師になるが、一年で辞職、その後二十一歳で
京都の西山翠嶂の門に入り、毎年帝展に出品している。
 四十歳までは新文展や日展などに出品していたが、一九四八年昭和二十三年
《創造美術》の結成に参加して、二年後には京都市立美術大学の助教授に
就任している。その不矩が一九六二年五十四歳の時、何故かインド行きを
決意している。
 不矩は数少ない著作の一冊である画文集『バウルの歌』という本の中で、
創造美術参加当時を振り返り、

 ただ私の苦悩したことは、自分の作品が果たして宣言した理念を表現しているか、
周囲の目に耐え得るかということであった。

 と漏らしている。
 創造美術第三回展に出品した「少年群像」が、福田平八郎に絶賛されて、
「この作品によって秋野イズムを築いた」と評価されたのだが、秋野不矩には
得心できなかったのだろう。

 爾来、「裸童」「青年立像」「裸婦」などを試作して、人間の表現に苦心して見るが、
一向に曖昧で本質をつくことが出来ない。

 と自分を覚めた眼で見ている。
 そして不矩は続けて

 なんとなく不透明な気分でいたとき、降って湧いたように私のインド行きが決定された。 と書いている。

 確かに「朝霧」や姉妹」などの伝統的手法の作品や「少年群像」や「裸童」という
僅かに前衛的な手法だけでは、秋野不矩の将来は見えてこない。
小倉遊亀や三岸節子と三人で女流三人展なども開催しているが、それも
秋野不矩には不透明な気分のままだったのだと思われる。二十歳の頃から始めた
日本画の製作が三十四年経過しても決して将来が見えてこないと言う思い、
それを打破するために不矩は藁をもつかむ思いで、インド行きを決意したのだと思う。

 そして不矩は四十年の間、十四回インドを訪ねて、精力的に各地を視て周っている。
その思いの一端が画文集『バウルの歌』に書かれているが、この画文集『バウルの歌』は絶版になり、現在入手困難になっている。その画文集の中で不矩はインドで
感じたことを抑制の利いた文章で書いている。
不矩は言う。

 インドの世相の救い難い矛盾、非情を感じながら、その中に親ともども
うちひしがれて生きている子どもたちが、意外に素朴純真で素直であることを知る。

 また別の所で

 南インドに来て、私は人々の心に深く宿る土着神や地母神に心惹かれた。

 こうした優しい眼差しがその後の不矩の作品に反映されていくのである。
更に「クリシュナ川」と題する文章の中で

 夕方、展望台で見ていると川のはるか彼方からゴマ粒ほどの黒い点々の群れが、
こちらへ向かって川を渡ってくる。(中略)それが眼前で急に深い淵になった急流に
乗った。水牛の群れは黒い角の頭を並べ、一列になって右手の岸に流れるように
泳ぎついて這い上がるのである。

 これこそ秋野不矩を世間に知らしめた代表作《渡河》の一原風景である。
この「クリシュナ川」は未発表のため、いつ書かれたのか分からないのであるが、
原文の書き出しは一九八二年となっており、不矩七十四歳の時である。
作品《渡河》はその十年後、一九九二年平成四年に製作されている。
 あとがきで不矩は

 私は今、渡河する水牛の絵を描いている。
(略)ダヤ川は橋も落ちる寸前の氾濫状態、(略)その上ダヤ川はアショカ王が、
ここまで侵略の手を延ばし、殺戮の血に染まった赤いダヤの流れを見て、初めて
発心し仏陀に帰依するという機縁の川でもあった。

 と書き、更に

 製作中の氾濫するダヤ川の流れはやはりとても難しい

と書く。
 この流れは難しいと言う時、何が難しかったのだろうか。
一筆一筆のその運びだったのだろうか。それともダヤ川の歴史を思うと
複雑な心境だったのだろうか。-
 実際このダヤ川を渡る水牛の群れを描く《渡河》を見ると、不矩がインドで
感じてきた様々な思いとそれまでに製作されてきた作品の中にある思いが
まるで集大成されたように一気に筆に乗り移っている感じである。
ガンガーの流れの一筆一筆に不矩の思いがこめられている。

 だが不矩は「ビスバーバラティ大学」と言う一文で

 タゴールは自分の絵について「絵が黙っているように、私は説明などできない。
絵は表現するが、言葉をもって叙述するものはひとつもないと語っている。

 と書く。
 これも未発表のものであり、いつ書かれたのか分からない。このタゴールの
重い言葉は少なからず不矩の作品の中に反映している。それが二〇〇〇年の
最後の《ガンガー》である。もうこの最後の《ガンガー》にはダヤ川を渡る水牛の
《渡河》を描いた当時の思いはないと言ってもいい。
 また「バウルの歌」では、ベンガルの吟遊詩人が歌う歌を書いている。

 私は希望を持っている。鳥が水中の魚を狙うように一途にその願いを求めて
追っている。けれどもなかなかその願いを掴むことができない。(略)
ああ、ただ神の思召しにまかせるより外はない。

 と書き、不矩はその歌をカセットにとってインドの絵を書きながら
それを聞いていたと言う。この「バウルの歌」は一九八六年に書かれている。
《渡河》はまだ描かれていないし、ましてや最後の《ガンガー》はこの十四年後に
描かれるのである。
 秋野不矩のインドでの四十年を考え、最後の《ガンガー》を見ると、タゴールの言葉と
このバウルの歌う歌の中に不矩の沈黙の全てが詰め込まれていたのかもしれない。
そして描き続けて四十年はただひたすら最後の《ガンガー》を生み出すための
試練の時だったのかもしれない。

 本当は不矩の再出発の年齢に達してきて、ここから何が出来るのか、
何をしなければいけないのか・・・そんな静かな思いがある。
終われない・・・・何か
 不矩の四十年を思うと自然とそんなことが頭をよぎっていく。



漱石『野分』
2008年11月16日
アメリカのリーマンショックがそのまま世界同時不況に発展して、
世界経済は破綻寸前まで来ている。店の注文はがた減りになり、
あすをもわからぬ状況に追い込まれています。
考えてみれば、今私たちはこれほど世界の歴史に組み込まれていると
実感できる時期はないのではないだろうか?
さて今回もある句誌からの転載です。

漱石の作品『野分』の書出しは

 白井道也は文学者である。
八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春
飄然と東京へ戻つて来た。流すとは門附に用ゐる言葉で飄然とは徂徠に拘はらぬ
意味とも取れる。

 この「文学者である」という冒頭は極めて謎に満ちており、また象徴的である。
だが、その前に『野分』というと、ついあの芭蕉の

芭蕉野分して盥に雨の聞く夜哉

と言う句を思い出してしまうのは偶然ではない。漱石が「野分」と付けた理由は
調べてないが、俳人としての芭蕉ではなく、連句の点者としての芭蕉を
意識していたかもしれないと思わせる。それはさて置き、この『文学者である』と
言う時の漱石の中にある文学者の定義とは何であったのだろうか?

 この『野分』の中で白井道也は神田の清輝館で《現代の青年に告ぐ》と言う
演説をし、その最後の締め括りで、漱石は道也に

 彼ら是非とも学者文学者の云う事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。耳を
傾けねば社会上の地位が保てぬ時期がくる

 と言わせている。読んで解る通り、単なる物書きや教育者としての学者と言う
規定ではない。社会的使命を持った学者、文学者と言う規定の仕方をしている。
 その道也は妻との会話で

「社のもので、この間の電車事件を扇動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。
-ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をして
その収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて
間違えられるとあとが困りますから……」
「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道が
いいのさ」

 この「電車事件」は1906年の三月に始る電車賃値上げ反対運動のことである。
この運動は元々は自由民権運動のその後の流れの中で、普選運動や日露戦争に
拠る生活の困窮を訴えるロシア人の漸次的なロシア革命とその思想の流入、
民権から国権の転換、また日露戦争講和反対運動と言った時代の変遷を潜り、
直接的には日比谷焼討事件により政治の二大潮流が生まれて行く時の
政局的問題だったのである。
言ってみれば、東京の都市構造の変革期に一般人が貧民化していく過程の中で、
政友会と反政友会とがぶつかり、値上げ問題を利用しての権力闘争だったのである。
 世相的には戒厳令がしかれ、四大新聞が発行停止、東京市内各所に検問所が
設置された時期だった。

 作品『野分』は事件の半年後、明治四十年1907年に書かれている。。まだまだ
作品の時代背景がそのまま生々しい頃である。
 この頃の漱石の心情は狩野亨吉に宛てた書簡に具に出ている。明治三十九年
十月二十三日付の書簡の中で

 世の中は僕一人ではどうもなり様はない。
ないからして僕は打死をする覚悟である。(中略)ただ尤も烈しい世の中に立って
(略)どの位自分が社会的分子となって未来の青年の肉や血となって生存し得るか
を試して見たい。

 と言い、同じ日の別の書簡で

 僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。(略)朋友の同情とか目上の
御情とか(略)是からはそんなものは決してあてにしない。
(略)余は一人で行く所迄行って、行き尽いた所で斃れるのである。

 と、漱石は心情を吐露している。『野分』の中の演説で

 社会は修羅場である。文明の社会は血を見ぬ修羅場である。四十年前の
志士は生死の間に出入して維新の大業を成就した。諸君の冒すべき危険は
彼らの危険より恐ろしいか知れぬ。血を見ぬ修羅場は砲声剣光の修羅場よりも、
より深刻に、より悲惨である。諸君は覚悟をせねばならぬ。

 と白井道也に言わせている。そして更に

 彼らと戦うときに始めて、わが生涯の内生命に、勤王の諸士があえてしたる
以上の煩悶と辛酸とを見出し得るのである。

 と言わせ、「煩悶と辛酸」の中で戦うのが文学者であると規定しているように見える。
だが、この『野分』は最後の十二章で、借金をしている白井道也が借金を
取り立てられている所に、高柳という肺炎を患った青年が、友達の中野から
借りた百円を持って、白井道也に転地療養の挨拶に来る所まで話が続く。
 高柳は懐の百円を白井道也の謝金に当てて、白井道也の書いた『人格論』と
交換し、高柳は中野へ約束の原稿を手にする、と言う所で終わるが、
その最後に

 いいえ、いいんです。好いから取って下さい。-いや間違ったんです。是非この
原稿を譲って下さい。-先生私はあなたの、弟子です。-越後の高田で先生を
いじめて追い出した弟子の一人です。-だから譲って下さい。

 と昔、新潟で白井道也を苛めて追い出した張本人だったと漏らす。それを
聞いた白井道也は愕然とするが、高柳は『人格論』を手にして、友達の中野と
その妻に対する好意に報いようとした。

 この『野分』、一見白井道也は漱石の心情をそのまま映した人物と受け取る
ことができるが、漱石の文学的視点はその白井道也だけではない。その他の
人物にも振り分けられている。それはこの『野分』では語り手自身が作者と名乗り、
白井道也をそのまま体現するような視点に立っているために思い込みを
起こさせるからである。
だが作者の語りは全体の視点に立っている。

 かつて漱石の弟子の小宮豊隆は、漱石全集の解説で、白井道也を「志士」派
或いは「人生」派、高柳周作は「人生」派でありまた「拘泥」派、中野輝一を
「俳諧」派或いは「草枕」派と分類している。
 本来なら漱石にとって、白井道也こそ望むべき「文学者」だったのだろうが、
事実は高柳のような拘泥の多い自分を高柳として見ている。
確かに明治三十九年十月の鈴木三重吉宛の書簡では

 俳句趣味はこの閑文学の中に逍遥してる(中略)僕は一面に於いて俳諧的
文学に出入りすると同時に一面に於いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な
維新の武士の如き烈しい精神で文学をやって見たい

 ともいう。
 しかし漱石のこの思いは実はこの時期のものでしかなかった。
十年後、大正五年に漱石は最後の小説『明暗』を書いている。この時の視点は、
すでにこの『野分』を書くときの俳諧的文学を基にしている。
 あの松尾芭蕉が連句の点者としての視点をそのまま『明暗』に結実させるのである。
この『野分』とはその意味で『明暗』の魁となる作品と言える。

画像は尾瀬の火打ヶ岳 今頃は真っ赤に燃えた紅葉が綺麗でしょうね?

秋野不矩展 永遠との出会い、神域への逍遥
2008年10月02日
 昨日、10月1日神奈川県立美術館葉山館でやっている《秋野不矩展》を
見てきました。10月5日が終わりなので、もう行かないと見られないと思い、
全てをなげうって見てきました。好きなこの葉山館ですから、目をつぶっても
いけるくらいです。
その《秋野不矩展》の感想を・・・


 二人旅の最後の日々を、不矩と僕は、ガンジス河畔で過ごした。
河畔には細かい灰色の砂地が遥か上流から下流に広がっている。
夕方になると人々がサリーやドーティに包んだ死体をかついでやって来て、
薪を積み上げて火葬にしている。(中略)人の魂は川を流れ下り、
やがて昇天して再びこの世に戻ってくるのだろうか。

 これは、秋野不矩の息子の秋野亥左牟が不矩とインド紀行した時の
感想である。今回の葉山での企画展は秋野不矩の約百五十点の作品であり
京都時代に始まり、インドで描いた物を中心としていた。
 いつものように一度サラッと見てもう一度、始めから見直してきた。
そしてふと頭をよぎったのは、不矩にとってインドとは何であったのか
と言う疑問だった。

 年譜を見ると、明治四十一年静岡の磐田郡二俣町(今の天竜市)の
神主の家に生まれている。今の静岡大学に入り、小学校の教師になり
一年で退職、二十二歳のとき京都の西山翠嶂の門に入っている。
これが本格的な画業の始まりである。四十一歳の時、京都市立美術大学の
教授に就任しているが、このままだとまだ不矩の描く絵はありきたりだったが、
五十四歳の時、仏教学者の佐和隆研から誘われてインド行きを決意する。
ここから滞在を含め約十数回インドへ出掛けている。
二〇〇一年十月逝去するまで五十年間インド各地を放浪している。
 五十年も費やした時間、もう一度不矩にとってインドとは何であったのか。

 各部屋を見て、最初の部屋の『砂上』は横たわる女体とその奥に三人の
遊ぶ子ども達を配置している。そのゆったりとした時間の流れの中で
母親の子ども達に向けられた視線は母としての不矩の視線そのものだった。
一九六四年、『インドでの太陽の輝きは到底私の筆には及ばないものだった』と
書いているが、この頃の不矩の視線は広大なインドの風景に圧倒されたのか、
一見風景画の奥行きに曖昧な所が見られるが、一九六九年の《雨期》では、
不矩にとって奥行きなどはもうどうでもよくなっている。
 視線を凝らせば烈しく重なり合う雲と大地そしてガンジス、
手前に置かれた黒い雲と黄色のガンジス、奥にかろうじて驟雨を描いている。
描きたい、私のインドを描きたい、奥行きなんて、奥行きなどはどうでもいい、
このインドを、このガンジスを描きたいといった強い執念のようなものが表れている。

 不矩はインドで沢山の人物、村落、寺院、女神などを書いている。
会場でこれらを何度見ても響いてこなかった。心が動かなかった。
感性を動かされなかった。これらの作品はよく評される所の生命や祈り、
土地への愛着、そして畏敬と言うようなものがあるのだろうし、
それが不矩のいう

 私は日頃思う、頭で考えるよりも体で行う中で識ろう、インド人がはだしで
土を踏む様な心で絵を描こう(中略)凡てを享受しておそれない心で絵をかき度い、
祈りながら

と言う所に通じているのかもしれない。
 実はあの有名な平成四年一九九二年に描かれた《渡河》が見たくて
葉山館に出掛けたのだが、会場を二度見たとき、これももうどうでもよくなっていた。
まだまだ不矩の青さが感じられた。氾濫するダヤ川とうとうと流下る水面を
渡る水牛の群れ、確かに生命力のある水牛の群れを描くことで八十四歳の
不矩の生命観があふれている。

 この《渡河》を見た後、別の部屋で一九九九年に描かれた《ガンガー》
そして横に並べて飾られた二〇〇〇年の最後の《ガンガー》を
見てしまえば、今まで見てきた不矩の作品は影が薄れてくる。
 ガンガーとはガンジスのことである。二〇〇一年の死を前に、
不矩は総決算としてインドを書き上げている。不矩にとってインドとはなにかは
ここに結実したと言って良かった。

 二点の並んだ《ガンガー》、その絵を前にして動きたくなかった。
出来るなら絵の中に入って行きたかった。時間を忘れて見ている内に
涙が出てきた。涙が止まらなかった。
 この二枚の《ガンガー》に《渡河》を並べてみれば、全てを飲み込むガンジスを
そのまま描いている《渡河》がいかに饒舌か分かる。
不矩の絵はまるで洋画のようなタッチで描かれているが不矩は紛れもなく
日本画家であり、その日本画の持つ最大の特徴を最大に現したのが
最後の《ガンガー》である。

 これは銀箔を塗り嵌めて、そこに白い雲を細長く描き、インドの広大な大地を
現す黄色い塊、その間に黄土色のガンジスの中に何処へ渡っていくともわからない
水牛が配置されている。
だがこれも《渡河》や他の《ガンガー》があるからこそ、
この最後の《ガンガー》が分かるのである。 
 この水牛の群れは実は秋野不矩自身だったのではないだろうか。この絵の中で
秋野不矩は何処へ行ったのだろうか。
神の領域への逍遥・・・そんな思いが離れない。

 さて亡くなる一年前に描かれたこの二〇〇〇年の最後の《ガンガー》は、
あの桃山時代を代表し、近世水墨画の最高傑作でもある長谷川等伯の描いた
《松林図屏風》に匹敵するような作品ではないだろうか。
《松林図屏風》にも負けて劣らない日本画の境地を秋野不矩はインドの地で
ついに手に入れたのではないだろうか。
 そして二〇〇一年九十三歳で召されていくのである。
 
画像は2000年に描かれた最後の《ガンガー》


葉山は思い出の地、都市でもなく田舎でもなく、古いものと新しいものが
渾然一体となって息づいている。頑張ってますか?


今回は手抜きです
2008年09月07日
夏が終わり、やっと涼しさの出てきた今日この頃、今年はダイビングと
山登りに夢中になろうかと思っています。
さてまたまた或る句誌に書いたものを転載しました。




 五二 ベルン。一八九七年十一月十日。音楽に夢中になればなるほど、
私はこれでいいのかと心配になる。私には自分というものがわからなくなって
しまったのだ。私はバッハの無伴奏ソナタを弾く。バッハにくらべれば、
画家ベックリンなど何だというのか。苦笑せずにはおれぬ。

 パウル・クレーの日記、クレー十八歳のときの書付である。この頃のクレーは
小説や詩を書き、また父母の色濃い影響もあったのか音楽家になりたいという
気持ちも捨てきれないでいた。
十九世紀末のスイスは、世紀末象徴主義運動の中、このベックリンや
クレーと同じスイスの首都ベルンで生まれたホドラー、ウィーンではクリムトなどが
活躍していた。
 ヨーロッパ全体を覆った時代の転換期に特有な文化的な現象や気分の中、
十八歳のクレーはまだ無自覚なままベックリンをあざ笑っている。
福永武彦の小説「死の島」の題名にもなったベックリンの代表作でさえ、
クレーには何者でもなかったし、またその他の世紀末象徴主義運動に身を置いた
画家たちも意に介してはいない。だが、総点数九千の作品を残したクレーの出発点は
ここにある。

 一九〇〇年の四月頃の日記、第九十三番目では

 絵画こそ私のつくべき職業なのだーこの思いが、いよいよ確かなものになってくる

と書いている。そして一九〇〇年十月、ミュンヘン美術学校に入学し、
フランツ・フォン・シュトゥックの教室に入り、主としてデッサンを学び、
またツィーグラーに腐蝕銅版画の技法を教えられた。
そして翌年一九〇一年十月二二日から一九〇二年五月まで彫刻家の
ヘルマン・ハラーと共にミラノ、ジェノバ、ピサ、ローマなどで様々な芸術作品を
見てまわる。古代ギリシャ・ローマ芸術からルネサンス、そしてバロック、
また中世のロマネスク・ゴッシク芸術などに圧倒される自分を感じつつ、
二九四で、

 私は古代ギリシャ・ローマの偉大な文化と、そのルネッサンスを概観できるように
なった。ただこれらは、われわれの生きている時代とはなんら芸術の上で関連が
ないように思われる。いま反時代的な活動をしても、それはただの荒唐無稽だと思う。
(中略)とまれ、私は、野獣のように反抗するであろう。
と書き、三七四では

 他日、自然を私のそのときどきの造形力に直接翻訳する実験をしてみようと思う。

とクレーはイタリア芸術に圧倒されながらも、少しずつ自分を確立させてきている。
そして帰国直後の日記、回顧四二九では

 イタリアでは、造形芸術の建築的なものー私の関心はあくまで抽象芸術であった。

と記しながら、四三〇で

 亜流の時代に生きなければならないことを考えると耐え難い。イタリアでは、
この思いに溺れて、なすすべを知らなかった。いまは、この考えを捨て去るように
毎日努め、徒弟として右顧左眄せず謙虚に学んでゆきたいとおもう。

と亜流への嫌悪を滲ませ、また自己の芸術的態度の出発点を見極めている。
そして更にクレーの凄さを物語る言葉がある。

 とまれ、この俺という自我はゆるぎないのだ、と内なる声は不遜にも叫ぶ。
なぜならば、自我が大きく成長してゆくとき、まわりのブルジョワ世界は無慙にも
崩壊し行く運命にあるのだ。これは嘘いつわりない。

 パウル・クレー、実に二十三歳のときであり、すでにミュンヘンの美術学校に
肌が合わず退学している。このイタリア旅行は、学校教育では得られないものを
クレーに与え、クレーの芸術的世界を広げさせた。その自覚が、ブルジョア世界の
崩壊を予感させたのでる。 ブルジョワ世界の崩壊とは、いってみれば芸術の
ブルジョワ革命と言い換えられ、自らが約一九〇〇年間の芸術的伝統を崩壊させて
見せるという意気込みである。

 事実その後のクレーは銅版画やガラス絵などを描き、一九一四年まで
ほぼ毎年個展を開き、ようやく世界の関心を集め始めた頃、この年のチュニジアへの
旅行で一大転機を迎える。ことにチュニジアの中心地カイルアンの風景は
色彩と光を開眼した地である。
第三の日記の九二六の四月十六日に

 なにか知らぬが、心深く、なごやかに染み渡るものがある。それを感ずると、
私の心は安らぐ。齷齪するまでもない。色は私を捉えた。自分のほうから色を
探し求めるまでもない。色は私を永遠に捉えたのだ。色と私は一体だ。

 クレーの色彩豊かな作品はこのときに始まる。すでに一九一四年、非具象画家
カンディンスキーやマルクたちと知り合い、ブラウエ・ライター(青騎士派)として
第二回から展覧会に参加しており、この頃から抽象絵画に踏み込んで行き、
それは同時に線描の理論へと進化していく。一九二〇年に完成した『創造的信条』の
中にある

 線描が純粋であればあるほど、いいかえると、線的表現の基礎となっている
形式的要素に重点がおかれればおかれるほど眼に見えるものを写実的に
再現することがなくなって来る。線描の形式的要素と、ここでいっているのは
点、線の、平面の、空間のエネルギーのことである。

 と言い抜いている。
 また一九二〇年クレーのもとにバウハウスの設立者たちから一通の手紙が届く。
この頃の造形の理念は世代間で大きく相違し、動揺していた時で、クレーは
熱望を持って迎えられている。以後十二年に渡ってクレーは教壇立ち、後進の指導を
行い、また自分の造形芸術論と一体化した芸術を完成させていく。

 ニ十世紀初頭、パリではなく主にミュンヘンを中心として、その後の二十世紀
芸術の魁となった青騎士派とバウハウス運動。しかも従来の伝統的手法も
時代的手法も取らずに今日の芸術の基礎となった二つの運動の中に
パウル・クレーはいたのである。

 一九〇〇年、クレーはスイスのベルンから旅立ち、漱石は横浜から旅立ち、
両者に関わりはないものの、クレーは世界的な抽象画家として作品を残し、
漱石はその作品の表現方法で、その後の近代作家が取った表現手法を
全て描いて見せた所に日本文学の世界性があると思わせる。


画像はクレーの『Senecio 「セネシオ」』
1900年
2008年08月06日
毎日暑いですね!店の中に一日中いるのであまり実感はありませんが
それでも暑いです。神田の窓展の目録も終わって、やっとほっとした所です。
今日は記念日、忘れないために或る句誌に掲載したものを、
今日転載しました。

1900年、明治三十三年とは何であったのか。
漱石が横浜から留学した二十世紀の幕開けであり、その時世界は
どのように動いていたのか。また人々は何を考え、
どう行動していったのか。三十四歳の漱石、その後世界的に活躍し、
沢山の作品、沢山の業績を残した人々を比較検証しながら、
漱石文学の位置とその世界性を探ってみたい。

 1900年、この年に生まれているのが、例えば映画監督の伊丹万作、
画家の柳瀬正夢、陶磁研究家の小山富士夫、経済学者の野呂栄太郎、
詩人の三好達治、言語学者の時枝誠記、詩人の尾形亀之助そして作家の
稲垣足穂たちであり、劇作家のオスカー・ワイルドや美術評論家の
ジョン・ラスキンが亡くなっている。
 画家のパウル・クレー、1879年スイスのベルン郊外で生まれ、
1898年にベルンの文化高等学校を卒業し、画家となるためにパリと
並んでドイツの世界的芸術都市であったミュンヘンへ行き、1900年、
ミュンヘン美術学校に入学している。

 また1881年、スペインのアンダルシア地方に生まれたピカソは、
1900年十九歳の誕生日を迎える二・三日前、つまり十月二十二・三日頃
パリを訪問している。それは十月二十一日漱石がイタリアのジェノバから
アルプス山脈を越えてパリのリヨン停車場に着いた日と近い。
ピカソは1973年昭和四十八年、九十二歳まで生きているので、
一見時代観が違うように見えるが、漱石とピカソは同時期パリで
フランスの空気を吸っており、もしかしてパリの街中のどこかで
交差していたかもしれないのである。

 そして1900年の一年前、1899年、ドイツ国境に近いオースリアの
小さな街で税関吏の子としてヒトラーは生まれている。小学校の頃、
後に哲学者となるヴィトゲンシュタインとは同級生であった。
そのヒトラーは1905年、ウィーンで画家を志しているが、
美術大学受験を二回とも失敗し、のち民族主義的政治思想に目覚め、
ナチス帝国を築いたとき近代芸術は人道的、人種的に堕落したものであると
決め付け、退廃芸術であると禁止するようになる。

 もう一人、世界的な菌類学者として有名な南方熊楠、彼がロンドンで
生活したのは、1892年の九月から1900年の九月までであった。
植物学のほかに人類学、宗教、哲学そして民俗学などに深い造詣を持っている。
 1867年和歌山で生まれた熊楠は、明治十六年1883年に上京して、
神田の共立学校で高橋是清から英語を学び、大学予備門に入学しているが、
それは松山出身でのちに陸軍の参謀となる秋山真之や正岡子規と同級であり、
また1884年明治十七年、十八歳の漱石も同級なのである。
その熊楠、八年いたロンドンを1900年九月一日に発ち、日本へ
十四年ぶりに向かっている。九月八日に横浜を発った漱石と
九月一日にロンドンを発った熊楠、きっとインド洋上のどこかで
交差しているはずである。

 こうして1900年を中心に世界地図の上をこれらの人たちが
動いていく様を追ってみるのは楽しいものであるが、
中でパブロ・ピカソは生涯に一万三千五百点の油絵と素描、十万点の版画、
三万四千点の挿絵、三百点の彫刻と陶器を残している。
またピカソの洗礼名は聖人などの名前を並べたもので、講談社の
『ピカソ全集』を見てみると、

パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、
マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、
デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ

となっている。

 さてそのピカソ、年譜を見ると1881年に生まれ、父親は
サン・テルモ美術工芸学校の教師で、十三歳くらいまで父の手ほどきを
受けている。1897年マドリッドの美術展に「科学と恩寵」という作品を
出品しているが、この時十六歳のピカソにはすでに天才の趣が現れている。
ピカソの活動期間は《青の時代》から始まり《新古典主義の時代》と呼ばれるまでの
活動期間が長いため、その芸術の変化と発展について総体的に
捉えた文献は意外と少ないが、恐らくキュビズムの達成を生んだパリ、
モンマルトルの《洗濯船》での出会いや修業がピカソ芸術の頂点を
作ったと思われる。勿論それ以前に少年期スペインのエル・グレコや
ベラスケス、ゴヤや中世芸術の技法を学び、またパリから流れてきた
ロートレックなどの世紀末芸術に影響は受けたであろうが、
それ以上にこの《洗濯船》であり、また美術学校の教師として
父親の教育と理解が天才を天才たらしめたと思われる。

《洗濯船》とは、今ではエミール・グードー広場と呼ばれている
モンマルトルの丘の南西斜面にあった古ぼけた一軒家である。
今は焼失して無くなってしまったが、ここに貧乏な芸術家たちが住み、
そこへ沢山の常連たちが集まって来ていた。マリー・ローランサンや
アポリネール、アンリ・ルソー、ジョルジュ・ブラックそしてゴーギャンたち。
 昭和五十二年集英社発行ジャニーヌ・ワルノーの「《洗濯船》二〇世紀美術の青春」という本がある。この中にキュビズムの代表であるブラックの
「エスタックの家」とピカソの「アヴィニョンの娘たち」が並んである。
一見しただけでセザンヌの晩年を思わせる筆のタッチであり、形態である。
エスタックはセザンヌのゆかりの地であり、1908年ブラックは六点の
作品をサロン・ドートンヌに出品しているが、全て落選、その時の
審査員だったマティスが《エスタックの家》を「小さな立方体」と
評したことから、キュビズムが始っている。

ピカソといえば、1907年《アヴィニヨンの娘たち》の制作は
その秋、完成を断念し、アトリエに仕舞い込まれる。
この大作は初めて「ラ・レヴォリュシオン・シュールレアリスト」に複製が
掲載されて喝采を浴び、セザンヌ以後の現代美術の開幕を告げるのである。
ピカソにとってブラックとの出会い、《洗濯船》での生活は以後
どのような技法や美術思想を生み出そうが、ピカソ芸術の根幹の
場所であったと言えるのだ。

 さて漱石とピカソ、この全く関係のない二人だが、パリの街角で交差し、
それぞれ不安と孤独、狂気の中で作品を残している。
 ヨーロッパを往来し、各地を旅し、膨大な量の作品を残したピカソ、
その名の世界性、作品の世界性は1900年初めに端を発している。

 漱石を語るとき、まだ私たちに欠如していた視点がある。
世界史の中の漱石ではなく、世界文学の中の漱石でもない。
昨今言われるグローバルではなく、インタナショナルな視点に立ち
また同年代に活躍した人々の思想、視点、そしてその眼を通して
漱石の位置を見つけることが出来ないか、いまそれを問うてみたいのだ。
今回のピカソは紙数の関係でうまくそれを捉えることが出来ずにいる。
ピカソの眼を通して、漱石の風景がどのように見えてくるのか
これは今後の課題になってくる。

大好きな蕪村の一句

きつね火や 五助新田の 麦の雨

九州旅行
2008年07月21日
この7月13日(日)から15日(火)まで窓展のメンバーで九州に行ってきました。
羽田から熊本空港へ、いつもの通りレンタカーを借りて、まず高千穂峡へ・・
実は写真ではよく見るあの峡谷、その上はどうなっているんだろうって
現実的な興味がありました。でもやはり想像したとおりでした。
あのわずか10M 位の滝となって落ちる場所だけがクローズアップされているように
ううううう~ん思ったほどではなかったです。みんなでボートに乗ろうという話に
なったけれど、日曜日ということもあり、しかもこちらは総勢16名
一時間待ちのボート、8台を借りるには相当な待ち時間が予想されて
結局やめました。その後高千穂神社や天の岩戸神社を見て、夕食後は
ちょっとエロチックな高千穂神楽も見てきました。

翌日はフラワーパークや夢の釣橋をみたりして、夕方由布院へ到着
そして15日の朝は、3時起きして4名で由布岳を登ってきました。
前日の14日は時々雨に降られていたので、朝になるまで雲行きがわからず
ともかく登山口まで行ってみようということで、真っ暗な登山口に着いて空を
見ると、なんと星が輝いている。よし!これなら大丈夫と山の取っ付きにある
門までどこが道なのかわからないまま、夜露に濡れた草むらをひたすら歩く。
九州辺りは、関東と違って夜の明ける時間が1時間半ぐらいおそいので
3時40分に出発して、1時間ぐらいしてからやっと空が白み始めてきました。
でも真っ暗な空の中、眼下には雲の切れ間に由布院の街の灯りが、函館と
同じように見えて綺麗でした。

峠にはいつ着いたかな?5時半くらいだったのか?由布岳は双子峰なので
まず簡単な東峰に登り、ゆったり一服・・・
取って返していよいよ西峰へ・・・
始めからやせ尾根で鎖場が2箇所あったかな?でもビビッてしまう前に
西峰に到着・・峠のところに両方とも歩程15分ってなっていたのが
ちょっと不思議だったけど、いざ登ってみると、あの鎖場のある西峰も
15分で登れました。

宿の朝食は9時までだったので、急いでおり、温泉につかって
汗を流し、食事へ・・
どこもそうだけど、ここもバイキングであまり食べたいものが無い。
起きてから何も腹に入れていないので、大盛のご飯を三杯
味噌汁を三杯のんで、やっとひと心地つきました。

宿を10時に出発して、国東半島を周り、魔崖仏を見て、いくつかのお寺を回り
夕方大分空港へ・・・
宿ではビールを飲んだけど、昼間はレンタカーの運転で飲めなかったから
空港のレストランでたらふく地ビールを飲んできました。
最近の地ビールはどこで飲んでうまくなりました。

画像は由布岳の峠

梅雨明けかな?
2008年07月04日
 今朝の雷・・すごかったですね!目が覚めてしまいました。
これでもしかすると、早いだろうけど梅雨明けかな??
さて今回もある句誌からの転載です。


 先日、神田の展覧会に参加した搬入日にある人の棚を見ると、
そこになんと子規全集の第十九巻書簡二があった。
これは明治二十九年から三十五年、そして年次不祥、補遺を
おさめたものである。前回漱石がパリに着いて浅井忠を二度ほど
訪問したとき、その訪問の根拠は子規から渡された書簡を漱石が
届けたのかもしれないと推測した事を証明出来るか
それがこの書簡集の中にあるはずだから、
まさに本が呼んでいたと言うしかないような奇遇であったと言える。

この書簡集、明治二十九年から三十五年まで全部で六八八通あり、
碧梧桐宛が九十五通で、虚子へは百五通と多く、漱石には二十一通、
森鴎外へは十五通送っている。そして浅井忠へは唯の一通である
このたったの一通は何を意味しているのだろうか。
あまりにも少ないことが子規と浅井の関係どう捉えればいいのか、
困惑させるところである。

その中で鴎外と子規の交友は、明治二十七年鴎外が第二軍兵站医部長として
中国に出征した時に始まる。子規も二十八年従軍記者となって
金州付近の近衛師団附の宿舎に入るのである。だがその待遇の悪さに憤慨し、
参謀本部に出かけて冷遇を訴え、帰国の許可を求めている。
その数日前従弟の藤野古白のピストル自殺の報を受けて暗澹たる思いを
していたが、森鴎外がいることを知り、二回ほど子規は鴎外と
文学談を交わしている。そして子規はその帰路、船の上で喀血して
病状が悪化し、下船後そのまま神戸病院に入院することとなる。

この当時、例えば国木田独歩は民友社に入り、国民新聞の海軍従軍記者として
戦況報告して「国木田哲夫」の名前は一躍有名になり、その後『東洋画報』、
『近事画報』、日露戦争では『戦時画報』の記者として活躍しているように、
当時はこぞって従軍記者として戦地に赴き、戦況報告をする気運が高まって、
正岡子規も焦る思いで日清戦争に赴いたと思われる。
そしてそこで鴎外と対面するのである。

 さて浅井忠への書簡一通、明治三十三年六月二十五日の日付である。
浅井はこの三十三年二月に横浜からパリに向け出発、四月にはパリに着いている。
全集の記載では上根岸八十二番地から在仏国巴里となっており、
残念ながら肝心の封筒は欠となっている。
封筒の表書きはどうなっていたのか。切手はあったのか。
ただ浅井忠殿というような書き方であったのか、つまり子規が
直接浅井宛に出したのか、それとも誰かに託して、浅井に手渡してもらったのか、
そこの所が分からなくなっている。

書簡の内容は、浅井からの五月五日付けの手紙を貰っての返信であり、
また雑誌『ホトヽギス』の表紙の下絵を送ってくれたことの返礼である。
さらに近況報告をしており、中でも中村不折についてかなり紙数を費やしおり、
不折の古画趣味のことや・不折の起こした出版社との行き違いについて
概ね好感を持ってみている。
 その子規とは違い、この頃の漱石は中村不折への悪口を平然と
口にするようになっている。

その漱石は三十三年五月イギリス留学を命じられ、七月二十日大洪水に
見舞われた熊本を去り、牛込区矢来町の中根重一方に泊る。
そして二十三日夕方子規を訪ね、夜まで話している。その後子規とあった
形跡はなく、九月七日頃、子規から
  萩すすき 来年あわん さりながら
 という句を贈られている。
 この頃の子規の手紙に浅井忠に触れた記載がないか調べてみると、
三十二年八月横浜に住む下村純孝宛の手紙に

 浅井氏の洋行ハ邪魔ありてやみになるかも
知れずなどと申候

 とあるだけで、子規は大方身近な人間の近況報告を付け加えて手紙を
書いているが、この手紙以外、浅井忠についての記載は全くない。
ついでに三十三年に出された書簡全てをあっても浅井忠の記載はなく、
漱石に宛てた書簡は明治三十二年が二通、三十三年が四通で、
その中にも浅井の記載はない。
それではと思い漱石の書簡を見てみると、初めて浅井忠という記載があるのは
明治三十五年の夏目鏡宛の「只今巴里より浅井忠と申す人帰朝の序」という
既出の記載が初めてで、その後明治三十八年橋口五葉宛の絵葉書に
浅井の絵のうまさを賞賛している記載があるだけである。

さて初めに戻って、漱石が巴里に着いて浅井を訪問したのが二回、
内一度は浅井の不在で会うことができず、二度目の時は漱石の年譜も
日記も訪問したとあるだけで、会うことができたのかどうなのかは書かれていない。
また浅井側の年譜も多分漱石の日記を利用して漱石にあったと
しているだけのような気がする。またちなみに漱石全集第十九巻の
日記・断片を見ると、後書の所で断片六手帳の天地を逆にして住所の
控えを書き、英語で浅井と書いているだけである。 

 正岡子規の明治三十三年六月のたった一通の書簡は封筒がないために、
子規が投函したのか、人に託して手渡してもらったのか、分からない所であるが、
もし子規が浅井忠宛に書き留めておいた手紙を漱石が子規を訪問した
七月二十三日に子規から手渡されて預かり、それをパリに着いてすぐに訪問して
渡そうとした可能性もなくはないのである。
だがそれは単なる推測に過ぎないのである。
高橋在久は千葉県立美術館の紀要の中で

二十六日朝再び訊ねて何を語り合ったか二人は会っている

と言っているが、断言できるほどの根拠を持っていたのだろうか。
 と言うのも素朴に考えて、あれ程断片や書込みを残した記録魔の漱石が、
浅井忠に会ったとしたなら、その人柄や品性について例えわずかでも浅井忠の
印象を書いておかないことの方が不思議である。
 芳賀徹のいう正岡子規を通して漱石と忠は知り合ったと言うならば、
熊本時代やたびたび東京に帰省した時に会っていただろうし、
手紙魔の漱石が忠宛に手紙を書いていたとしても可笑しくはないのである。
だがこうしてみてきて分かるように、浅井忠についてほんの僅かしか
書いていないのである。つまり浅井忠が日本に帰国する直前、漱石を訪ねているが
それも渡辺和太郎による引合せであり、
その時が初めて出会った印象が隠せないのである。
 今の所、江藤淳編の『夏目漱石』で言われている渡辺和太郎が
その橋渡し役をしたということの方が理にかなっている。


画像は飯豊連邦の梅花皮岳(かいらぎ)
つゆですかね?!
2008年05月31日
ここ数日、梅雨ざむを思わせるような天候、梅雨の走りなんだろうか?
さて今回もある句誌からの転載です。何故か渡辺和太郎にこだわっています。
画像は漱石最後の宿 いまだに健在なんですね!


先に渡辺和太郎について書いたとき、ひとつだけ疑問があった。それは浅井忠が
漱石を訪ねたときの「倫敦ではクラファム・コムモンの夏目漱石の宿に泊まった。
美濃部渡辺などもその地に居たから」という箇所である。
 勿論すでに渡辺和太郎はこの漱石第五番目の宿に居たことは分かっていたから、
浅井の「その地」とは倫敦を指すのではなく、このクラファム・コムモンの
夏目漱石の宿と同じ宿という意味と思っていた。だがよくよく調べてみると
また違った事実が出てきた。漱石が五番目の宿を探す経緯は実は荒正人版
「漱石全集」の別巻の月報に渡辺春渓が「漱石先生のロンドン生活 」という
一文で書いている。
春渓が八十歳近くなって回想したもので昭和三十年頃に書かれたものとなっている。
この渡辺春渓、漱石全集の人名欄で調べてみると

 渡辺伝右衛門 春渓と号す。横浜商業を渡辺和太郎と同期で卒業。
貿易実務修行と経済視察のため明治三十四年イギリス留学。台湾で製茶業を興す

 とある。台湾で紅茶の栽培を成功させ、それをリプトンが一手に買い上げたと
云われている。
その春渓の一文に「太良(渡辺和太郎)は以前から、この家に下宿していた」とある。
つまり漱石と知り合った第三の宿からこの第五の宿に漱石よりも先に下宿して
いたのである。
漱石第四の宿は日記にも「聞シニ劣ルイヤナ処デイヤナ家ナリ永ク居ル気ニナラズ」と
書くほど嫌悪感を持っていたので、早く別の宿に移りたく思っていた所に和太郎から
通知を受けて引越すのである。つまり漱石をこの第五の宿に世話したのは
この渡辺和太郎であった。
下宿代は室代三食付、一週三十五志(シリング)食事も悪くはなったともある。
その為漱石は帰国までの一年四ヶ月の間この宿に滞在する。
 春渓の手記には、残念ながら和太郎が何時漱石第三番目の宿を出て、
この第五番目の宿に越したのかは書かれていない。そして漱石を世話した後、
和太郎はかねてからの大陸旅行に出かけたとある。

 さて疑問のひとつだった「浅井と和田との滞在中にグレを訪ねたものには渡辺和太郎、
久保田米斉、(中略)美濃部古泉(達吉)等がある」という所から、漱石と浅井忠の間を
仲介したのは渡辺和太郎だったろうと推測し、漱石第三番目の宿以降での仲介と
していた。 
  春渓の手記の和太郎の大陸旅行は明治三十四年七月二十日以降であり、
京都新聞社で刊行した画集『浅井忠』の年譜を見ると、

明治三十四年十月二十二日、和太郎グレーに来るとある。また和太郎と写真機を
持ってモンクールに行く、夜「客」という題で句会を開くとなっている。
その二日後和太郎はパリに戻ったと記されている。
浅井忠は三度グレに出かけ、この明治三十四年の十月一日には画家和田英作と
連れ立ち、ホテル・シュヴィヨンに滞在し翌年の三月まで留まる。和太郎の訪問は
この時期のものである。
この画集で浅井の滞欧期の作品解説があるが、やはり和太郎についてはまったく
触れられていない。
 また画集の中で千葉県立美術館の館長だった高橋在久は『浅井忠の原風景』で
浅井のフランス留学中の幅広い交際をあげ、塚本靖(東大工学部教授)、箕作元八
(東大文学部教授)勝田主計(大蔵大臣)、田中半七(田中写真印刷創業)、
渡辺伝右衛門実業家)、渡辺和太郎(渡辺銀行創業者)などを併記しているが
その横の繋がりの経緯まではない。
相変わらず浅井と和太郎の交誼の端緒はわからない。
最近手に入れた浅井忠を特集した千葉県立美術館の紀要でも高橋在久は
さほど和太郎について触れていない。十月二十二日の和太郎の来訪で歓迎の
句会を三人で催したその三人の句を取り上げているだけである。
 その句会で読まれた数句を書いておく。「客」という題

 客僧と つれつれ語る 秋の夜 杢
 先づ客に 葡萄供する 田舎哉 太
 花薄 刺客は江を わたり行く 外

 秋雨や 書院に碁客 請しけり 杢
 合宿の 客に句を読む 夜長哉 太
 月まとか 客酒に酔ひ 我歌ふ 外

なんだか三人のゆったりとした友情が言外から感じられるのも、秋のフランス、
グレの風景から生まれてきてるような感じがする。

 さて春渓の手記にあるように明治三十四年七月二十日漱石に第五の宿を世話した後、
和太郎は大陸旅行に出かけ、その十月二十二日にはフランスのグレに居て浅井忠と
遊んでいるのである。芳賀徹の『絵画の領分』の二人を仲介したのは正岡子規だろうと
いう推測は崩れるのではないだろうか。
さらに明治三十五年七月二日の妻鏡子にあてた手紙の中で

 只今巴理より浅井忠と申す人帰朝の序拙寓へ止宿是は画の先生にて色々
画の話杯承り居候

 このように書いており、文面から推測すれば浅井とは初対面であったような
印象が隠せない。
 勿論ご存知のように漱石がパリに着いたとき、二回ほど浅井忠を訪問している日記の
記載があるが、そのうち一度目は浅井の不在で会えず、二度目は訪問したとだけある。
この時漱石と浅井は会えたのだろうか。そして話を交わしたのだろうか。
二人の文献を見ても全く記載されていないし、それ以上言及した書籍はない。
この二度の訪問、もしかして子規からの手紙を託されて、浅井訪問だったのかも
しれないが、子規の書簡集を調べないと分からない所である。

さて春渓の手記に『七月になって巴里から浅井画伯が来て先生と同じ宿に逗留、
黙語画伯は最初太良宛通知をよこした。太良は以前自身がいた室が空いていたので、
それを画伯の宿とした』
とある。更に和太郎は浅井忠が漱石を訪問する明治三十五年六月二十八日以前の、
この年の元旦には別の宿に転居しているとある。漱石以上に転居を繰り返している
ことが分かる。
そしてこの年の八月にはアメリカを経由して帰朝している。
 始めの「倫敦ではクラファム・コムモンの夏目漱石の宿に泊まった。美濃部渡辺なども
その地に居たから」という箇所のその地とは漱石の宿ではなく、やはり倫敦だった
のである。

 なおこれは蛇足だが、浅井忠を取り巻く人たちで浅井を中心にさまざまな会が
できていた。「二十日会」 十六夜会」 そして「黙語会」などである。
京都時代の浅井を取り巻く人たちによってできた[二十日会]を別にして
いずれも浅井の死後、彼の追悼のためにできたものである。
[黙語会」の会員名簿を見ると渡辺和太郎も新海竹太郎も、明治42年2月に
入会している。浅井が亡くなったのが、明治40年12月16日、その死の
約1年後である。
 こういうところにも渡辺の人柄が感じられてくる。単に実業家だけではなく
文化面でも大いにバックアップしたことがわかってくる。
これは漱石との関係でも、付かず離れずという関係の中で、生涯、その交誼を
保ち続けたところに和太郎の人間性が浮かんでくるようだ。



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