2008年08月06日
毎日暑いですね!店の中に一日中いるのであまり実感はありませんが
それでも暑いです。神田の窓展の目録も終わって、やっとほっとした所です。
今日は記念日、忘れないために或る句誌に掲載したものを、
今日転載しました。
1900年、明治三十三年とは何であったのか。
漱石が横浜から留学した二十世紀の幕開けであり、その時世界は
どのように動いていたのか。また人々は何を考え、
どう行動していったのか。三十四歳の漱石、その後世界的に活躍し、
沢山の作品、沢山の業績を残した人々を比較検証しながら、
漱石文学の位置とその世界性を探ってみたい。
1900年、この年に生まれているのが、例えば映画監督の伊丹万作、
画家の柳瀬正夢、陶磁研究家の小山富士夫、経済学者の野呂栄太郎、
詩人の三好達治、言語学者の時枝誠記、詩人の尾形亀之助そして作家の
稲垣足穂たちであり、劇作家のオスカー・ワイルドや美術評論家の
ジョン・ラスキンが亡くなっている。
画家のパウル・クレー、1879年スイスのベルン郊外で生まれ、
1898年にベルンの文化高等学校を卒業し、画家となるためにパリと
並んでドイツの世界的芸術都市であったミュンヘンへ行き、1900年、
ミュンヘン美術学校に入学している。
また1881年、スペインのアンダルシア地方に生まれたピカソは、
1900年十九歳の誕生日を迎える二・三日前、つまり十月二十二・三日頃
パリを訪問している。それは十月二十一日漱石がイタリアのジェノバから
アルプス山脈を越えてパリのリヨン停車場に着いた日と近い。
ピカソは1973年昭和四十八年、九十二歳まで生きているので、
一見時代観が違うように見えるが、漱石とピカソは同時期パリで
フランスの空気を吸っており、もしかしてパリの街中のどこかで
交差していたかもしれないのである。
そして1900年の一年前、1899年、ドイツ国境に近いオースリアの
小さな街で税関吏の子としてヒトラーは生まれている。小学校の頃、
後に哲学者となるヴィトゲンシュタインとは同級生であった。
そのヒトラーは1905年、ウィーンで画家を志しているが、
美術大学受験を二回とも失敗し、のち民族主義的政治思想に目覚め、
ナチス帝国を築いたとき近代芸術は人道的、人種的に堕落したものであると
決め付け、退廃芸術であると禁止するようになる。
もう一人、世界的な菌類学者として有名な南方熊楠、彼がロンドンで
生活したのは、1892年の九月から1900年の九月までであった。
植物学のほかに人類学、宗教、哲学そして民俗学などに深い造詣を持っている。
1867年和歌山で生まれた熊楠は、明治十六年1883年に上京して、
神田の共立学校で高橋是清から英語を学び、大学予備門に入学しているが、
それは松山出身でのちに陸軍の参謀となる秋山真之や正岡子規と同級であり、
また1884年明治十七年、十八歳の漱石も同級なのである。
その熊楠、八年いたロンドンを1900年九月一日に発ち、日本へ
十四年ぶりに向かっている。九月八日に横浜を発った漱石と
九月一日にロンドンを発った熊楠、きっとインド洋上のどこかで
交差しているはずである。
こうして1900年を中心に世界地図の上をこれらの人たちが
動いていく様を追ってみるのは楽しいものであるが、
中でパブロ・ピカソは生涯に一万三千五百点の油絵と素描、十万点の版画、
三万四千点の挿絵、三百点の彫刻と陶器を残している。
またピカソの洗礼名は聖人などの名前を並べたもので、講談社の
『ピカソ全集』を見てみると、
パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、
マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、
デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ
となっている。
さてそのピカソ、年譜を見ると1881年に生まれ、父親は
サン・テルモ美術工芸学校の教師で、十三歳くらいまで父の手ほどきを
受けている。1897年マドリッドの美術展に「科学と恩寵」という作品を
出品しているが、この時十六歳のピカソにはすでに天才の趣が現れている。
ピカソの活動期間は《青の時代》から始まり《新古典主義の時代》と呼ばれるまでの
活動期間が長いため、その芸術の変化と発展について総体的に
捉えた文献は意外と少ないが、恐らくキュビズムの達成を生んだパリ、
モンマルトルの《洗濯船》での出会いや修業がピカソ芸術の頂点を
作ったと思われる。勿論それ以前に少年期スペインのエル・グレコや
ベラスケス、ゴヤや中世芸術の技法を学び、またパリから流れてきた
ロートレックなどの世紀末芸術に影響は受けたであろうが、
それ以上にこの《洗濯船》であり、また美術学校の教師として
父親の教育と理解が天才を天才たらしめたと思われる。
《洗濯船》とは、今ではエミール・グードー広場と呼ばれている
モンマルトルの丘の南西斜面にあった古ぼけた一軒家である。
今は焼失して無くなってしまったが、ここに貧乏な芸術家たちが住み、
そこへ沢山の常連たちが集まって来ていた。マリー・ローランサンや
アポリネール、アンリ・ルソー、ジョルジュ・ブラックそしてゴーギャンたち。
昭和五十二年集英社発行ジャニーヌ・ワルノーの「《洗濯船》二〇世紀美術の青春」という本がある。この中にキュビズムの代表であるブラックの
「エスタックの家」とピカソの「アヴィニョンの娘たち」が並んである。
一見しただけでセザンヌの晩年を思わせる筆のタッチであり、形態である。
エスタックはセザンヌのゆかりの地であり、1908年ブラックは六点の
作品をサロン・ドートンヌに出品しているが、全て落選、その時の
審査員だったマティスが《エスタックの家》を「小さな立方体」と
評したことから、キュビズムが始っている。
ピカソといえば、1907年《アヴィニヨンの娘たち》の制作は
その秋、完成を断念し、アトリエに仕舞い込まれる。
この大作は初めて「ラ・レヴォリュシオン・シュールレアリスト」に複製が
掲載されて喝采を浴び、セザンヌ以後の現代美術の開幕を告げるのである。
ピカソにとってブラックとの出会い、《洗濯船》での生活は以後
どのような技法や美術思想を生み出そうが、ピカソ芸術の根幹の
場所であったと言えるのだ。
さて漱石とピカソ、この全く関係のない二人だが、パリの街角で交差し、
それぞれ不安と孤独、狂気の中で作品を残している。
ヨーロッパを往来し、各地を旅し、膨大な量の作品を残したピカソ、
その名の世界性、作品の世界性は1900年初めに端を発している。
漱石を語るとき、まだ私たちに欠如していた視点がある。
世界史の中の漱石ではなく、世界文学の中の漱石でもない。
昨今言われるグローバルではなく、インタナショナルな視点に立ち
また同年代に活躍した人々の思想、視点、そしてその眼を通して
漱石の位置を見つけることが出来ないか、いまそれを問うてみたいのだ。
今回のピカソは紙数の関係でうまくそれを捉えることが出来ずにいる。
ピカソの眼を通して、漱石の風景がどのように見えてくるのか
これは今後の課題になってくる。
大好きな蕪村の一句
きつね火や 五助新田の 麦の雨