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店長日記:53
静かないち日のはじまり・・・
2008年04月27日
25・26日は神田の古書会館で書窓展に出ていて、今回は久しぶり酒がおいしくて
二次会まで行ってきました。
 世間ではその昨日から連休ということらしいですが、今朝は店の前の車の量も
気のせいか少ないようで、静かな一日を迎えています。
さて今回もある句誌からの転載です。

漱石は大正五年十二月九日午後六時四十五分この世を去っている。
この年の初めごろから次第に体調を悪化させており、また一時リュウマチと
診断された病気はのちに糖尿病と分る。この間の詳しい事情は荒正人の
『漱石研究年表』に書かれている。その中で森田草平の発案でデス・マスクを
作ることになり、大塚保治の依頼状を持って、大塚の友人、新海竹太郎を
迎えに行き、午後十時頃脱型するとある。もう十数年前、吉祥寺の東急で
行われた「漱石展」でこのデス・マスクを見ている。顔が小さく非常に彫りの
深い顔立ちであったのが印象的だった。
 この新海竹太郎、明治元年二月五日山形市で生まれた明治期を代表する
彫刻家ではあるが、彼についてまとまって書かれたものは非常に少ない。
知見する限り数点である。

今手元にある『新海竹太郎伝』、竹太郎が伯父に当たる新海竹蔵によって
書かれたものだが、それによると竹太郎は明治二十年浅草区の私立鳥越小学校の
補助教員になり、翌年近衛騎兵大隊に入営する。そして近衛騎兵大隊長である
渋谷在明によって才能を見出されて、当時彫刻家として頭角を現してきた
後藤貞行を紹介される。そして明治二十五年後藤貞行の助手になり、
東京美術学校で馬製作の手伝いをする。更に明治三十年浅井忠について
デッサンを習い、小倉惣次郎について彫塑を習っている。
しかし竹太郎はデッサンを習いながら油彩も稽古したが、ものにならず
生涯絵筆は握らなかったと言われている。
油彩はものにならなかったが、彫刻では明治二十六年以降、木彫や鋳銅、
そして石膏などで力を発揮して、明治三十年日本美術協会の通常会員になり、
翌三十一年には岡倉天心らの創立した日本美術院の正会員にもなっている。

 さてその竹太郎、明治三十二年三十二歳の時、臨時博覧会審査官を仰せ付けられ、
三十三年一月十五日横浜から鎌倉丸に乗ってフランスのパリ万博へと旅立つ。
大正十年に回想した「巴里の万国博覧会を」と言う一文の中に

 翌三十三年には巴里に万国博覧会が開かれるので、僕も何とかしてこの好機会に
行ってみたいと思うた。色々苦心の結果、この大作で多少の金も残っているし、
それに農商務省の補助金やら博覧会の手当やら、その他二、三人の知人から
借り集めて漸く僅かばかりの金ができた。

とパリ万博、そして外遊、さらに彫刻技法の習得についての抱負を書いている。
浅井忠よりも二ヶ月早い渡仏だった。浅井は四月十五日マルセイユに着き、
十七日には夜行列車で巴里についている。石井伯亭編の『浅井忠』によると、

 久米(桂一郎)の案内で岡田和田に会い、みんな一緒になって
クアルチエー・ラタンのパンテオン附近に室を探した。結局新海竹太郎の居る、
ブラース・ヂュ・パンテオン十一番のオテル・ヂュ・パンテオンと云ふのに
明き間があるので、不充分ながら其処へ移ることにした。

 とあるが、これ以後、この『浅井忠』には竹太郎の記載はない。
というのも、明治三十三年六月にはパリを発ち、ドイツのベルリンに向かっている。
その理由は巴里の物価高に比べて、ベルリンは安く生活できるという事が
一番であった。
 明治三五年一月帰朝後の四月に竹太郎は東京帝国大学文学部に美学取調べを
委嘱され、大塚保治の助手になっている。
この大塚保治、漱石全集で調べると、

美学者、旧姓は小屋、群馬県の生まれ、明治二十四年東大哲学科卒、二十九年から
三十三年まで独、仏、伊に留学、(中略)東大美学講座の最初の教授となる

とある。漱石晩年までの友人であり、あの大塚楠緒子と結婚し、養子となった
学者である。ただ自ら著述したものを残さなかったので、死後弟子達によって
『大塚博士講義集』が編纂されている。
 この明治三十三年のフランス、ドイツには美濃部達吉、狩野亨吉、小山正太郎、
久米桂一郎など始めとして日本の学者や画家達、そして実業家達がたくさん
集まっていたと思もわれる。新海竹太郎、大塚保治、ともに書き記したものがないので
推測の域がでないが、これに同時期ドイツに留学していた芳賀矢一の『雪月花』や
『筆のままに』、そして藤代禎輔の著作などを合わせ読んだら、ベルリンに滞在した
日本人の事情がもっと分ったかもしれない。そして大塚保治と新海竹太郎は、
明治三五年以前にこのドイツで顔を合わせ、交誼を結んでいたかもしれないが、
竹太郎のドイツ回想の中にはただ「日本美術学生は僕一人」としかなく、
大塚保治には触れていない。
『新海竹太郎伝』で大塚保治の名前がはじめで登場するのは、やはり明治三五年の年、大塚保治の助手となる時である。漱石をめぐる人々の中で、同時期巴里万博を中心に
留学した人々の中で、漱石と竹太郎は出会う事がなかったかもしれない。
 いずれにしろ漱石が死んだ夜、大塚保治の依頼状を持ってこられて新海竹太郎は
漱石のデス・マスクを製作している。そして大正十一年竹太郎は森鴎外が亡くなった時もそのデス・マスクを作っている。

さてこの漱石のデス・マスクだが、のちに二面のブロンズに鋳出されている。
その一つは夏目家、そしてもう一つは大阪の朝日新聞社本社に保存される。
元々の原型は製作者の新海竹太郎が所有した。荒正人の『夏目漱石』によると、
夏目家のものは、昭和二十年四月二十四日の東京大空襲で家屋と共に消失したと
なっており、朝日新聞社のものも一時行方不明となっていたようである。
それが生誕百年記念展で出品され、昭和四十年にこのデス・マスクから複製品が
作られとある。となると、吉祥寺で見たあの漱石のデス・マスクはその複製品だった
のかもしれない。


写真は春の立山
桜 こぶし 雪柳
2008年03月28日
今朝、倉庫からの帰り道、航空公園の脇を通ってきたけど
桜、もう満開ですね!そして終わりかけてきたこぶし
今を盛りのゆき柳・・・春ですね

さて句誌からの転載ですが・・・

 漱石が明治三十三年十二月の暮、第三の宿に移ったとき、そこには
先に書いた田中孝太郎や渡辺和太郎などがいた。その渡辺和太郎だが、
最新版の漱石全集の索引には

 渡辺和太郎(一八七八~一九二二)実業家 太良と号す。
渡辺銀行頭取渡辺福三郎の長男 横浜商業卒 
明治三十二年から三年間渡欧 ロンドンで漱石と交際 
その後渡辺銀行副頭取などを歴任

 とある。この渡辺銀行、昭和恐慌で倒産したあの渡辺銀行ではない。
明治期地方の民間銀行は小さな形態で乱立気味だったが、地域的に
分断されて創立、倒産を繰り返しており、今のような金融ネットワークが
出来るのは、日本銀行の成立まで待たねばならない。
この横浜渡辺銀行は金融史を調べてもわからないし、また社史さえない。
だからその規模さえ分らない所である。
 明治四十四年、警醒社から刊行された外国人向けの日本人物案内である
『Who’s who 1915』によると、父の福三郎の記載はないが、
和太郎については英語で八行記載されている。直訳してみると、

渡辺株式会社の代表的メンバー 渡辺銀行の取締役 一八七八神奈川県生まれ
父、福三郎 母よしい 母は栃木県のノザワ・タンジロウの三番目の娘 

と記載されている。
さて江藤淳編『夏目漱石』では三十行近く紙数がさかれている。
その中で興味深い箇所は

和太郎は実業家の二代目として、商業だけではなく文化的方面にも
関心を持ち、自身俳句を嗜むほか芸術や学問の理解者、後援者でもあり、
浅井忠や中村不折を漱石に紹介したのも和太郎であった

という所である。
一体渡辺和太郎は何処で浅井忠や中村不折と知り合っていたのだろうか。
その前に浅井忠と正岡子規との関係だが、叔父の加藤拓川を慕って、
松山から上京した子規は東京を転々とした後、加藤拓川を介して知っていた
陸羯南の紹介で、明治二十五年二月十九日下谷区上根岸八八番地に転居する。
陸羯南の西隣である。これにより子規は陸羯南の主催する新聞『日本』に
入社して、俳句を本格化させていく。
明治二十七年子規は上根岸八十二番地に転居する。陸羯南の家の東隣である。
そしてこの年の二月、子規は編集責任者として『小日本』を任される。
その『小日本』は半年足らずで挫折するのだが、その『小日本』に挿絵が
欲しいと思っていた子規は、陸羯南を介して知っていた浅井忠により
中村不折を紹介される。『墨汁一滴』の中に

 余の始めて不折君と相見しは明治二十七年三月頃の事にして其場所は
神田淡路町小日本社の楼上にてありき。(中略)此時に際して不折君を
紹介せられしは浅井氏なり

とある。実は浅井忠は明治二十三年、金杉村三二六番地に移転している。
明治の下谷区の地図を見ると、豊島郡金杉村は中根岸に隣接している。
明治二十九年七月から渡仏までの間、子規の家に近い根岸小学校の一角の
上根岸三十八番地に画室をかまえて住んでいたのだが、それ以前の
明治二十四年には下谷区中根岸八十一番地、そして明治二十六年には
上根岸六十三番地に住み、一時英国領オーストラリアきた落語家
快楽亭ブラックの住んでいた家にも住んだ事があったので、
子規とは気安く往来していたものと思われる。
その浅井忠がパリ万博のため臨時博覧会監査官を命じられて、神戸から
神奈川丸で渡仏の途につくのが、明治三十三年二月二十八日である。
昭和四年芸艸堂から出版された石井柏亭編の『浅井忠』によると、

 浅井と和田との滞在中にグレを訪ねたものには渡辺和太郎、久保田米斉、
(中略)美濃部古泉(達吉)等がある。

といきなり、渡辺の名前が出てくる。パリ滞在中に浅井が書いた『巴里日記』を
持っていたら、この間の事情が分るのかもしれないが、残念ながら手元にないので
詳しく分らないが、浅井忠と渡辺和太郎はすでにパリで懇意になっている。
その浅井は「巴会」と称して『ミモザ』という俳句の回覧雑誌を出しており、
これに渡辺も加わっていた。
浅井忠は明治三五年五月約一ヶ月のヨーロッパ巡歴の旅に出て、ローマ、
ナポリ、ミュンヘン、ドレスデンなどをまわってパリに戻る。
同じ年の六月二十八日の頃、ロンドンへ渡り、漱石と数日過ごすことになる。
先ほどの『浅井忠』によると、

 而して藤村知子多芳賀矢一の二人と倫敦に同行した。倫敦では
クラファム・コムモンの夏目漱石の宿に泊まった。美濃部渡辺なども
其地に居たから (以下略)

とある。クラファム・コムモンは明治三十四年七月二十日に転居した
漱石最後の宿である。
『絵画の領分』の中で芳賀徹は、二人(漱石と浅井)の間を仲介したのは
正岡子規だったに違いないと推測しているが、漱石が第三の宿で
渡辺和太郎と知り合ったのが、明治三十三年十一月二十日以降だから、
江藤淳編の『夏目漱石』の浅井忠や中村不折を漱石に紹介したのも
和太郎であったという記載とは大きく異なってくる。
漱石は明治二十八年以降、松山、熊本で教鞭を取っていたのだから、
たとえ東京の正岡子規とは懇意ではあっても浅井忠とは知り合う機会は
皆無に近いのではないだろうか。
漱石文献で、浅井忠の名前が、初めて出てくるのは明治三十三年十月二十二日の
日記である。その二年後に漱石は浅井と自室で親しく主に美術の話をする。

渡辺和太郎側の資料が何もないから、ここからは推測の域を出ないが、
渡辺和太郎は漱石と同じ第三の宿に住んではいたが、時々フランスへ
出かけていた。其の時懇意だった浅井忠たちと俳句で遊び、一緒にグレを
訪ねたりしたのではないだろうか。その渡辺和太郎が、漱石と浅井の
橋渡し役をしたのではないではないだろうか。漱石と浅井、そして渡辺和太郎を
時系列的にみると、そう考えるのが一番自然な気がする。

渡辺和太郎は、明治三十八年、横浜商業の同窓会の第二代幹事長になっている。

蕪村の句のなかで最も好きな句を・・・

かきつばた べたりと鳶の たれてける





青空 快晴 そして桜
2008年03月26日
今日はいいことがありました。

お昼を食べ終わって、店に戻ろうとしたときのことです。

冷静にしていても、ちょっと・・・いや、かなりどきどきでした。

こういう出来事は一日中幸福感に浸れますね!



一本橋からの桜 (となりのトトロに出てくる一本橋です)
警告!
2008年03月19日
って出ちゃいました。16日の日曜日、朝店にきて、PCを開こうとしたら
Alert! Chipset heat system halted・・・ってくら~~~い画面の中に
文字が浮かんでる。何度繰り返しても、おなじ警告がでてきて、
とうとうこのパソだめだなっておもいました。日曜日、どこのカスタマーセンターも
動いていないので、症状を聞こうにも訊けない。
仕方ないので、タワーを分解、いや開いてみたら、な~~んと、な~~~んと・・
パソの基盤についているはずの放熱盤が落剥している。これでは使えないし
HEATっていう警告がでるわけだ!

このXP 使い勝手がよくて、知らず知らず5年近く使っていた。95、98、ME,
2000そしてXPかな?やっとOSとしては安定したものになっていた。
でも、このパソ、もう使えない。
そこで外付けのハードディスクを買いに行き、ついでにスキャナー付のプリンターも
購入してきた。
あたらしいVISTを去年購入していたので、それがやっと出番を迎えたのだが
しばらくぶりの設定でわからなくなっている。特にネットをつなぐところで
何回IDとパスワードをいれても、入っていけない。

ビッグローブに電話して確認すると、IDのあとに@・・・を入れるとのことで
難なく解決!後はウイルスチェックと環境を整えることだけ・・
月曜日にはほぼ完了したものの、ヤマトのB2システムをもう一度DLしなければ
いけないのだが、以前、この新しいバージョンを試したとき、非常につかれたことが
あって、今回それを導入しなければいけないことに辟易していた。
それが昨日、送られてきたメールからDLして、いざ使ってみると、さすが、さすが
VIST用なので、以前の古いバージョンと同じようにまったく問題なかった。

今回のPC爆沈事件、終わってみると案外次のいい方向へ導いてくれたような
そんな出来事でした。でも疲れました。

そしてたくさんのお客様にご迷惑をかけてしまいました。
本当に申し訳ありませんでした。どうか平にご容赦くださいますよう
お願い申し上げます。

画像はこれも大好きな川瀬巴水 護国寺かな?
スキーへいってきました
2008年03月09日
3月の5日、6日と志賀高原へスキーに行ってきました。
2月29日に決めて、上野から新幹線で長野へ・・・
長野からは、高いなって思うバス代1900円を払い
志賀高原へ、約1時間
ホテルに到着したのが1時ごろで、スキーセットだけレンタルして
いざゲレンデへ・・・
胸に入っていたリフト券を見ると、2001年、東部湯の丸スキー場
なんと7年近くスキーから遠ざかっていたんです。
だから、ちょっと不安でした。スケートだって、毎日行っていても
なれるまで銀盤で30分くらい足慣らししますから
8年ぶりのスキーだから、勘を取り戻すまで1時間くらい掛かるかなって
思っていました。
いざ滑ってみると、やはり何度も転倒・・・
しかも志賀高原は初めてで、ゲレンデは中級の上って言ってもいいくらいの
コースばかり、久し振りの初心者にはちょっと手ごわいゲレンデでした。
初心者コースでも、リフト乗り場までの間にいきなり30度近いスロープがあり
これを降りないとリフトにも乗れない・・
ただ志賀高原の雪質はパウダーだったから、滑りやすく脚を取られることもない。
山形蔵王の雪質と比べたら、やはり蔵王には勝てないけど、
滑りやすいゲレンデでした。

夜の食事は、最近何処へ行っても当たり前になってしまったバイキング
その場で揚げるシメジとエリンギがうまかったです。

翌日は朝から快晴・・・
志賀高原は熊の湯から一之瀬まで横断すると自在に遊べるので
快晴の空の下、発哺から高天原、そして一之瀬と遊んできました。
写真は西舘山から日本海方面を見た所で、奥にはもう10年位前に
登った妙高と火打がよ~くみえました。

帰りの新幹線が15時27分長野発だったので、ホテルの人から
少なくとも12時半には戻ってきてくださいといわれたのに
快適な滑りに時間を忘れてしまい、ホテルに辿り着いたのが
1時過ぎで、新幹線に間に合うのか疑問だったが、
今回初めからすべてよし!って感じだったので、長野駅に着いたときは
まだ出発までに10分程度の時間があり、気をもむ事もなく無事到着
久し振りのたのしいスキー旅行でした。
漱石のイギリス
2008年02月21日
これもまた転載です。

明治三十三年九月八日、漱石は横浜から洋行の旅に出る。香港、コロンボ、
スエズを経て、同十月十九日イタリアのジェノバに上陸する。
ローマ滞在をやめ、同二十一日早朝のパリ・リヨン停車場に降り立つ。
翌日、エッフェル塔に登り、その後、数日パリ万国博覧会を見る。
この間、漱石はのちに東京美術学校の校長になる正木直彦や画家の
浅井忠などを訪ね、ドイツ留学へ向かう芳賀矢一と藤代禎輔らと別れ、
同二十八日午前八時にパリを立ち、午後七時ロンドンに到着する。
明治三十五年十二月五日、日本郵船の「博多丸」で帰国するまでの
二年間のロンドン生活が始まる。
そのロンドンの二年の滞在中、漱石は五回の転居を繰り返している。
第一の宿はB&Bだったためにわずか十五日の滞在だった。
その滞在翌日、漱石はボーア戦争に参加したイギリスの義勇兵たちの
帰国風景を眼にしている。この南ア戦争とも呼ばれるイギリスと
オランダ系のボーア人との永い植民地獲得戦争は、英国の勝利で終ったが、
戦争による打撃が大きかったために、中国清朝末期の義和団の乱以降、
満州に影響力を強め、南下政策を取るロシアと対抗するためにイギリスの
アジア戦略は大きく転換をせまられ、二年後の日英同盟に繋がる。
このボーア戦争は二十世紀の帝国主義的侵略戦争の幕開けとなる戦争であった。

この間漱石はノット夫人の紹介状を持ってケンブリッジ大学を尋ねたり、
また美濃部達吉と共に観劇したり、ロンドンブリッジ、また寺院や博物館を
精力的に見ている。
その後十一月十二日に第二の宿に移ったのだが下宿代が高かったために
約四十日間の滞在だった。ただこの時漱石は台湾総督府に勤務し、
東京女子大学の創立当初の理事でもあった長尾半平と知り合っている。
長尾半平は漱石の貧しい部屋とは別に、居間と寝室付きの豪勢な部屋を
借りていた。そのことは漱石のエッセイ『過去の匂い』に詳しい。
そして十二月二十日前後、漱石は第三の宿へ転居する。この宿は
元々小さな私立女学校だったが、伝染病のために学校を閉鎖して
下宿屋に変えたもので、ブレット夫妻、ブレット夫人の妹ケイト・スパロー
その他数人で営んでいた。主人は工学博士のインテリで、また大変な
日本人贔屓で、よく日本人を下宿させており、漱石が移ってきた当時、
田中孝太郎、渡辺和太郎、小山正太郎など5名の日本人がいた。

さてこの田中孝太郎と渡辺和太郎は漱石の様々な交友関係の中でも
異色な存在であり、共にY高と呼ばれる横浜商業出身の実業家である。
元来財界人との交友を特に嫌う漱石だったが、同じ宿で住む事になって
気を許す事ができたのだろう。その後特に渡辺和太郎とは年賀状や盆暮れの
贈り物などのやりとりを晩年まで続けている。
その渡辺は次回にして、この田中孝太郎については、漱石全集にも江藤淳編の
『夏目漱石』にも全く記載がない。 だがよく調べていくと、田中善助と
言う父を持ち、その善助は、明治44年、警醒社から刊行された外国人向けの
日本人物案内である『Who’s who 1915』によると、紡績繊維の貿易会社や
横浜電気鉄道、横浜商業銀行、日清紡績など数多くの取締役などを経て、
一八八八年にサミュエル商会に入り、一九○八年に辞職するまで
支配人になっている。
その善助の長男である田中孝太郎は明治二十三年横浜商業学校卒業後
この商会に入社して明治三十二年に渡米した後にロンドンに渡り、
ロンドンサミュエル商会に勤務していた時に漱石と同じ宿になり
知り合う事になる。
実はこのサミュエル商会は、イギリス系ユダヤ人であるマーカス・サミュエルが
一八七一年、懐にわずか五ポンド(当時の日本円にして五万円位)をもって、
十八歳でロンドンからひとり船に乗り、横浜に降り立ったところから始まる。
勿論彼にはこの日本に知り合いもいなければ、親戚さえなかった。
父から貰った卒業祝いの極東行の三等船室の片道切符を手に、父の課した
ビジネスに役立てるという条件を満たす目的だけだった。
そのサミュエルが目に付けたのは、湘南海岸で漁師たちが拾う
砂の中の貝だった。この貝を細工したり加工したりすれば、タバコの
ケースやボタンなどの美しい加工品が出来るのではないかと
考えた事だった。そしてサミュエルは貝を加工して、イギリスの
父の元に送り、父はそれをロンドンの町で売り始め、ロンドンでは
非常に珍しがられて父は次第に財をなしていくのである。

サミュエルは一八八五年三十三歳の時に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を
創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出する。その後、彼は輸出だけではなく
工業製品を輸入したりして、商圏をアジア全体へと広げていく。
そしてついに彼は、インドネシアで石油を掘り当て、様々な経緯を経て、
一八九七年横浜に「シェル運輸交易会社」を設立し、貝を拾い集めた頃の
原点に戻って作ったのが「シェル石油」であった。
田中善助はこの間横浜サミュエル商会を任されて手腕を発揮し、その長男は
ロンドンのサミュエル商会で働くと言う事になる。
さて漱石の手紙の中に田中孝太郎を評したこんな文面がある。

おれの下宿には○○と云ふサミュエル商会へ出る人が居る此人は
ノンキな男で地獄の話より外は何も知らない人だ此人と時々芝居を
見に行く是は一は修業の為だから敢えて贅沢ではない
日本の人は地獄に金を使ふ人が中々ある惜い事だ俺は謹直方正だ
安心するが善い

妻の鏡子に宛てた明治三十四年二月二十日の書簡であり、○○とは
田中孝太郎のことである。



版画は大好きな川瀬巴水の「冬の月」

そして大好きな加藤楸邨の句を・・・

さむきわが影とゆき逢う街の角

漱石の洋行
2008年01月28日
 これもまたある句誌に載せたものからの転載です。

明治三十三年九月八日、漱石は横浜からドイツ船『プロイセン号』に乗って
洋行の旅に出る。妻の鏡子、狩野亨吉、寺田寅彦などが見送りに来ていた。
船は途中神戸や長崎に立ち寄り、そこで漱石は親戚や知人から見送りを受ける。
漱石が洋行中に付けた日記の十月四日(木)の所にくると、

 十月四日(木)午前甲板ノ椅子ニ距シテ読書ス突然女ノ声ニテ夏目サント
呼ブ者アリ驚イテ見レバMrs、Nottナリ此方ヨリ上等室ニ訪問セザル故
向ヨリ来リタリト云明日午後ニ茶ニ来レトテ分レタリ

このように『ノット婦人』と言う文字がいきなり登場する。横浜を出港して
約三週間、船はインド洋上を過ぎてコロンボ辺りを航行している。岩波の
最新版の漱石全集にある簡単な人名索引をみると、

 ノット(1849-1912)イギリス海軍大佐夫人、熊本教癩病院に働いていた
娘グレイスに会いに来て、帰英の途次プロイセン号で漱石と同船した

 とある。漱石の沢山の交友関係の中で、このノット婦人はあまりにも唐突だった。
日記を読んでいていきなり出てくる人物で、それまで漱石文献には全くない。
江藤淳の『漱石とその時代』でも

金之助は五高の英語教師ファーデルに紹介されて一度だけ訪問した事があった

とだけある。
翌日の十月五日、漱石はノット婦人を訪ね
ケンブリッジ大学への紹介状と英文の『聖書』を貰っている。また英国滞在中も
世話になっている。
 このノット婦人、熊本に作られたハンセン病患者のための病院、回春病院に
勤めていた娘グレイスを訪ねてきた。この病院は、イギリスからの
宣教師リデル達によって設立された。現在熊本にはその功績を讃え、
リデル・ライト記念館があるが、娘のグレイスはそのリデルたちとともに
回春病院を創設した同志で、リデルより八歳下の三十歳の時熊本に来たといわれ、
病院建設の土地購入資金を英国の親元に打電して費用を準備したとも言われている。
そのグレイスがロンドンに帰国した後でも、一九三七年に作成した遺言書でも
回春病院に寄付するよう記載され、またノットの家系は海軍将校と聖職者が多く、
先祖には清教徒革命のクロムエルを持っていると言われている。
この回春病院は加藤清正の菩提寺である本妙寺でリデルが初めて眼にした
痛ましい姿のハンセン病者に衝撃を受け、ハンセン病者のための病院を二年半後
に創設されている。
 もともとハンナ・リデルはイギリス国教会に属する聖公会の宣教師として
明治二十四年神戸に降り立っている。その後熊本に赴任を命ぜられ、第五高の教授や
生徒たちに布教を開始している。 
 さてなぜリデルやグレイスは熊本への宣教だったのか。この熊本、実はもともと
キリスト教を受け入れる風土的な素地を持っていた。のちの京都同志社へと
受け継がれる『熊本バンド』を生み出した土地柄である。
 しかしよくよく調べてみると、熊本第五高の第三代校長である嘉納治五郎に
よって招聘された本田増次郎との関係が浮かんでくる。
この本田増次郎とは山本有三の妻、はなの父親である。

 本田増次郎は一八六六年一月十五日慶應元年十一月二十九日に岡山
(現在の三咲町)にて父・本田杢蔵・母・やゑの三男として産まれた。
増次郎は一八八三年明治十六年十月一日十七歳の時に弘文館・嘉納治五郎主宰の
英語学校へ入学、三年目からは夜間東京物理大学、現在の東京理科大学へも通った。
その増次郎が二十三歳の時、腸チフスを患い一時危篤状態に陥っている。
そして翌年婦人宣教師、アルドリッチ嬢、ペリー嬢などから英文学を学び
前年の命をを失いかけた経験などから一八九0年明治二十三年二十四歳の時、
日本聖公会東京聖三一教会堂にて受洗しクリスチャンとなっている。嘉納に
招聘されて第五高に赴任する一年前のことである。
その後イギリス教会宣教会宣教師らの懇請により大阪の高等英学校・桃山学院の
副校長や立教女学校、今の立教女学院校長なども務めている。
その本田増次郎が第五高に赴任するのが、明治二十四年九月であり、この時期
ケンブリッジ出身の宣教師、ジョン・バッブス・ブラントラムが布教のため
熊本に赴任していて、リデルやノットたち宣教師を出迎えている。
ここにおいて英国国教会に属する聖公会の宣教師と日本聖公会に帰依した
本田増次郎が熊本において出会うのである。

この本田増次郎、もっと詳しく調べてみるとアメリカの愛護運動に共鳴して
日露戦争中は官命により留学、ただ当初は留学でなく、途中から留学の任命を
受けるが、実質的には外務省の仕事をしている。またポーツマス講和会議を機に
ジャーナリストとしても活躍し、ニューヨークの新聞オリエンタル・レヴュの
主幹として英米有力紙に日本の立場を論じた。またパリ講和会議に西園寺全権の
随員として出席したが、表向きは国際新聞協会委員の資格で新聞記者の動向調査に
赴いた言われている。しかし実際は日英同盟更改問題を中心とする欧米の情報把握が
主な目的だったとされている。帰国後は多忙な執筆活動の間を縫って教会役員などを
務めた。正倉院美術の英文目録作成中に東京で死亡といわれている。
またリデルが作った回春病院の設立にも手を貸し、その命名をしたのが
この本田であったとも言われている。リデルの弱者に対する愛情や差別を
受けた人々への救済は同じ考えの本田にも共鳴したのだと思う。

 さて残念な事にここまで書いてきて、この本田と漱石、同じ第五高の英語の
教師として赴任しているのだが、全く接点がなかったのである。本田は漱石が
着任する明治二十九年以前にすでに転任している。リデルとともに熊本に
赴任した宣教師、グレイス・キャサリン・ニール・ノット、その母親である
ノット夫人と漱石はたった一度熊本で出会っている。その機会がのちに洋上での
再開となるのであるが、江藤淳のいう五高の英語教師ファーデルに紹介されて
一度だけ訪問した事があったというところまでしか分らない。漱石全集の
人名索引でも,ファーデル

 イギリス人語学教師、明治二十七から三十三十六年、五高の英語、フランス語教師
 としかない

疑問であったノット夫人についてはこれ以上分らないのである。



写真は馬上の花嫁 那美さん
漱石忌
2007年12月09日
1916年、大正5年12月9日(土) 午後6時45分永眠 享年50歳

慶応3年2月9日に生まれて、その50年後に亡くなっている。以下の文章はある句誌に書いたものを転載しました。

山路を登りながら、かう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角この世は住みにくい。

これはご存知の有名な『草枕』の書き出しだが、漱石がこの草枕の旅を友人の
山川信二郎に誘われて玉名郡小天村の赴いたのが、明治31年の暮の27日。
石神山北側を登り、荒尾山の南側の鎌研坂を登り、通越峠を越えて、本村に
出て、また熊ノ岳の南側の野出を通り、南越・八久保を経て小天村に出たと
言われている。この地の旅館に正月の4日位まで逗留している。

明治29年の春、漱石は松山の中学を退任後、菅虎雄の斡旋で第五高の講師に
就任した。その後の4年と3ヶ月の熊本生活が始まる。
 この熊本は当時30歳だった漱石にとってはまさに慌しい青春のひと時で
あったようで、中根鏡子との結婚、実父直克の死、鏡子の流産、そして鏡子の
投身自殺などを初めとして、公私に渡り忙しい日々であった。
 また英語研究のため文部省第1回給費留学生としてイギリス留学するまでの間
実に六回も転居している。しかしそんな熊本時代、寺田寅彦や山川信二郎、
また漱石の招聘で旧知の人々が続々と五高に集まってくる。その中でも特に
山川信二郎との交誼は特別なものがあったようで、義父・中根重一を介して、
今の一橋大学の前進である東京商業高等学校の校長、小山健三から年棒千円、
高等官六等でという招聘を断っているところからも伺える。
 この五高での漱石の月給は百円、当時の中学教師が25円前後だったことから
この千円というのは本当に破格の給料だったし、また生活的には義父の中根から
生活費が不足してるなら援助しようとも言ってきてるのに、漱石は山川信二郎への
信義のために就任を断っている。

 さてこの山川信二郎、漱石の文献を見ているとこの時期にしか顔をださない。
『五高五十年史』を見ても、
  帝国大学文科大学英文科第3回卒業生、4月10日第五高に就任
としかない。
 五高着任の4月10は漱石の自宅に泊まり、暫く寄宿し、その後10月29日
福岡・佐賀へ出張する漱石の英語授業の視察に伴い、この年の暮の草枕の旅
そして連名での礼状を前田家へ出し、同じ明治31年、また草枕の小天温泉へ
狩野亨吉、奥太一郎、漱石、山川信二郎らと5人で出かけ、明治32年、
山川とふたり阿蘇中岳へ登り、この時の山行でのちに『二百十日』が生まれる。
そして山川信二郎が第一高等学校教授に就任するため、明治32年9月に
熊本を離れて以降はあまり知られていない。
 先ほどの『五高五十年史』とは別に、昭和34年に刊行された『五高人物史』の
中でも、校長だった嘉納治五郎、国史の黒板勝美、上田万年、政治家の重光葵など
そうそうたる人物の中、漱石や寅彦などの記載はあるものの、山川信二郎の記載は
一行もない。
 ちなみに資料収集では抜群だった江藤淳の『漱石とその時代』の「草枕」の項を
開いても山川信二郎に触れる記載は全くなく、山川と小天温泉に出かけたとあるだけで
山川信二郎の人物については書かれていない。またその他『草枕』に関する評論等を
見ても、山川という人物には全く触れられていないのである。
 漱石が立ち寄ったとされる峠の茶屋の婆さんの顔写真や投宿した旅館の主人の
前田案山子やその娘の卓子などのついては書かれているのに、『草枕』関係の
資料を当たっても全く記載がない。さらにインターネットで検索しても、『草枕』の
同行者として登場するが、そのヒット数が極わずかで山川信二郎の人物は、
全くといっていいほど分らない。
 この時期の山川が第一高等学校へ招聘される経緯を書いておくと、友人・狩野亨吉が
明治32年第一高等学校に就任した後、その狩野から山川を第一高等学校へ招きたいと
言う手紙を受取り、第五高等学校側と漱石、そして山川本人と交渉が続き、学校側も
折れて山川の意向を汲んで第一高等学校への就任となる。
 その頃の漱石の狩野へ宛てた手紙に

 小生も山川に別れては学校の為には相談相手を失ひ閑友しては話し相手を失ひ
当人には何とも申さねど心裡は大いに暗然たるものの有之候ども是も浮世故
不得巳次第と存候

と心情を吐露している。そして7月7日、狩野から山川が第一高等学校に採用された
旨が届き、その9日仏教学者・松本文三郎を訪れて、山川信二郎の今後のことに
ついて相談する。そこで漱石は山川が家族の事で頭を悩ませている事を知り、
狩野亨吉あてに

 山川氏の周密にて多少心配家なるは御熟知の如く候然る処へ熊本に厭きて来て
一日も早く当地を去り度念非常に強くなりしのみにて別段臆病と申す程の
事にも無之又事務のとれぬと云ふ事は毛頭無之と存候

 と書き送っている。漱石の山川を思うやさしい心情がよく出ている。
 そして転任目前の山川とその9月に阿蘇中岳へ登ることになる。そして
やがて『二百十日』に結実する。こののち正岡子規の手紙に山川の消息がある。
留学後、漱石は山川へ宛てて草枕のたびを懐かしく思い出しているというような
書簡を送っている。
 ところで荒正人の漱石研究の年譜によると、明治35年『二六新報』で山川信二郎の
家庭の内情が暴露する。これにより山川は第一高等学校を辞任する。とある。
江藤淳編集の朝日小事典「夏目漱石」の山川の項を見ると、山川は一高在任中、同僚の
教師との間に誤解が生じ、事件を起こして退任したという、と書かれている。
漱石がまだイギリス留学中のことである。この事件がなんであったのかはこれも
伏せられている。
 明治36年の菅虎雄宛の手紙に、大塚保治の三女が死んだために、借りていた金の
返却を求められ、山川信二郎に借りて返却した事が書かれている。第一高等学校を
辞職した山川とこの時点ではまだ交際が続いていたものと思われる。
 ところでご存知のようにあれだけ仲のよかった漱石と山川はその後何があったのか
漱石によって断罪され、絶交状態になる。しかしその経緯は今もってあまり知られ
ていない。ただ狩野宛の明治39年10月23日の手紙に「余の性行は以上述べる所
に於いて山川信二郎氏と絶対に反対なり」とだけ記されている。
 今手元に大正11年刊行の『帝国大学出身録』がある。革装の分厚い本である。
この中には帝国大学五大学の出身者の記録があり、山川信二郎も書かれている。

◎ 山川信二郎 東京都本郷市神明町11
君は埼玉県に原籍を有し明治28年東大文科大学英文科を卒業し後に
熊本第五高等学校教授に勤務したるも退職以て今日に至る

 この出身録、大抵は2・3行で、東大総長になり最後漱石を解剖した長与又郎で
さえも3行である。あの「アドレナリン」などを発見した高峰譲吉が10行である。
それを考えると、山川がよくも掲載されていたものである。
 8年前この出身録を元に、埼玉関係の人物誌を調べていくうちに、思いもよらぬ
出身地を発見する。この所沢から程遠くない地である。
 故人の名誉を考えると、これ以上は記載しない方がいいのかもしれないが
山川家は医者の家柄で、父親は明治維新後埼玉県の県令になっている。
埼玉県は熊谷県や品川県、大宮県、忍県などが合併変遷後埼玉県になるが、
その県令になった人の三男が山川信二郎である。
振り返る・・
2007年11月21日
仕事柄、過去に目を向け、その過去に出された書籍をあつかう。だが、この仕事は
未来というか、少し先も見据えていかないとたちまち火の車になる。
そんな中、一度とて自分の過去を振り返ったことも後悔もない。それでいいと
いつも自分を戒めて、自分を受け入れてきた。

この現在の店に移転してから2ヶ月、以前お借りしていた店が、日に日に取り壊されていく様子を見ていると、やはり感慨はある。18年近く自分のすべてがそこにあった。
それが壊されていく・・・
思い出す開店初日と閉店日、
そしてジュリーのいつまでもアイドルでいたい・・という言葉を胸に刻み、
今日まで出来たこの仕事、18年の永い永い思い出・・

知り合いの人の句

ながさるる 快楽というを あめんぼう   大山

そうかなって思う、歌人の山崎方代の歌

踏みはずす 板きれもなく おめおめと 五十の坂を おりて行く

さてどうしようもない3句

ふりしぼり さからう流れに 川魚

もろともに 壊れてしまえ 秋の空

叫べども 寒満月の 遠ざかり

まだまだですよね!

ボーン・アルティメイタム
2007年11月12日
ボーン・アルティメイタム,今日見てきました。やはり面白かったです。
このボーンシリーズ、最初の<ボーン・アイデンティティー>を始めてみたのは
2002年、ニュージーランドからの帰りの飛行機の中でした。今では当たり前になっていますが、その当時、目の前の椅子に一台づつパネルがあり、そこで始めて見ました。
飛行機の中の映画は大抵公開されたものばかりで、あまり興味が湧かなかったのですが、どうしてかこの映画は見た事がないって思いながらみてました。デイモンのアクションの激しさが釘づけさせました。翌年の2月か3月、テレビを見ていると、この映画の宣伝をしていたので、その時初めて、飛行機の中で日本未公開の映画を先に見たんだと知りました。
 それから2年、2004年に2作目の<ボーン・スプレマシー>もみました。この頃は、スポーツジムのアスリエに来ていたニュージーランドのネイティブスピカーのジョナサンから
週に一度の英会話レッスンを受けていて、彼とはよく映画の話で盛り上がりました。
彼も映画が好きで、あれは見たか、これは見たかとよく訊かれました。そしてかれも
このマッド・デイモンの1作目、2作目を見ていて、それについてよく話しました。
彼は、その年、派遣会社の都合で池袋へ移転してしまい、その後は音沙汰がなくなってしまいました。今彼はどうしているだろう?
この2作目を見終わったときに、この話これではまだ終らないなって思っていたので、いつか3作目があるだろうと思っていたのですが、やっとその完結編が見られました。
これまでは、ボーンの逃避行のすばやさや、肉体、精神力の強さ、そして先見力、緻密さ、そして大胆さなどが際立ちましたが
今回はそのボーンの総体を超えるような、CIAの瞬時の情報力とネットワークが面白さの
ポイントになっています。今まで以上に迫力があり、またこれまでのどんなカーチェイスよりも衝撃力があります。
いままでいろいろな3部作映画を見てきたけど、そのなかでも群を抜いているかな?
ボーンにとっては、3年の記憶喪失期間だけど、映画は5年も掛かっている。長いようで
早い!早いようで長い時間がわれわれにも流れている。その今日、明日・・・

写真は、好きな書道家、森田子龍の「福」という字、
皆さんも福が来ますように・・・
仙台とサイパン
2007年10月15日
10月7日、所沢では祭一色、あまり騒がしいのが好きではないので、知り合いのいる仙台へ遊びに行ってきました。新幹線で一時間半、案外近いんですね。ただその仙台でも東北Yosakoi祭りなるものをやっていて
大変な賑わい、夕方知り合いと落ち合い一杯やってきました。飲むうちに気分もよくなり
予約して買っていた指定券の時間も過ぎ、とうとう4時間くらい飲んできました。突然出かけて、いきなり電話したのに快く迎えてくれました。でも迷惑掛けたな・・

10日からスイミングスクールの人たちとサイパンへダイビングへ・・
5・6年ほど前、パラグラや体験ダイブをしていたので、今回、スイミングのコーチが
ライセンス取得コースを設定した時に、すぐに申し込みました。
初日はサイパンの夜を堪能、一緒に行った人たちと普段は話せない話で盛り上がり
かなりビールも飲みました。
翌日は朝からまずプールでの講習、午後はラウラウビーチでスキル練習、緊急浮上が一番難しかったかな???でも、あまり不安も感じないで、水中の世界を楽しめました。
3日目は、もうほとんど練習は無く、2ダイブ、その日の朝、コーチからフィンキックのやり方を聞いていたので、そのとおりやってみると非常に楽、インストラクターの視線も気にせずに勝手に泳いで来ました。実はこの朝、昨日からの耳抜きがうまく出来ていないのか、耳の中でまだ空気が抜けきっていないような違和感があって、もぐれるのか少し不安があったけど、ゆっくり潜行して、痛くなるとまた少し浮上、を何度か繰る返してやっと耳抜きができ
ついでに水中で何分間も立っている中性浮力もできるようになりました。
そう!水のなかだけど、え?こんな魚いるのって思うような魚がたくさんいました。マンガというか勝手に書いたような・・子供が頭のなかで勝手に作りあげた魚の絵がそのまま
出てきたような、そんな魚がたくさんいました。
サイパンの現地の食事は全体的にはパスかな??屋台や現地の人しか来ない食い物やで食べたけど、全体的に甘い感じで、無理やり放り込んだって言うところ・・
ただバナナだけは世界共通みたいで、朝の食事はこれで我慢でした。
4日目、帰る日は朝から日航サイパンのガーデンプールとプライベートビーチで泳ぎまくり
日焼けしてきました。非常に楽しい4日間でした。

写真はパウパウビーチの夜景、夕日が何時までも暮れずに綺麗でした。
移転しました
2007年08月12日
この度、寿町から元町へ移転しました。
わずか300Mくらいでしょうか?所沢駅からは少し遠くなりましたが
西所沢駅からは近くなり、その中間位の所に位置しています。
3年後にはこの元町交差点のところに、円筒形の公民館、出張所
そしてその隣には、12階のマンションができ、その1・2階は
図書館になるそうです。道路に面してイベント広場も出来て
それなりににぎわうのかなって思っています。
静かな所でゆっくり商売を・・って思っていましたが
街から離れたくないし、前の店と同じ面積の店を探すことは不可能だし
これからの15年の計を考えると、ここがハッピーなついの店となるように
これからも頑張るつもりです。
新規開店は9月14日(金)を予定しています。
時間ができましたら、是非遊びに来てください。


久し振り一句・・

待つ宵の 夢かなわずに ほととぎす 

写真は、神田の展覧会、書窓展の積丹半島旅行の時の
ニセコアンヌプリからの羊蹄山・・朝6時
棲み分け論
2007年01月17日
一年、早いですね。去年、このブログは3・4回しか書いていません。
時間がないのと、ブログが好きではないのと2つです。

それで今、ネット専業での販売は非常に厳しい局面にいます。
明日のわからないようなサバイバルゲームのなかで、それでも
生き抜いていかなければいけない。
いままで敬遠していたAmazomのサイトを少しづつ利用して
売り上げアップにつなげようと思っています。この4月に
今まで主力にしていた「日本の古本屋」のサイトが大幅に
変更されるらしく、それでなくても値段競争の真っ只中で
厳しい中、われわれのような弱小の古書店はどうなるのか
先が見えなくなっています。このまま「日本の古本屋」が
サイトとして繁栄して行くのか・・その難しさの中に
今は漂っています。「日本の古本屋」は主に公共機関
大学図書館、また先生等から注文のため、後払いになり
これはこれでまたAmazonの支払いのシステムと違うので
有効利用できるところもあり、Amazonはお客さまが先に
カード払いで入金してくれるので安心した取引が出来るし
Amazonの傾向がわかると、これはこれでやはり商売になるかな?
そして最後にこのサイト、基本的には1点しかないようなものを
主力にアップしていけば、このサイトもまた生きてくる。
今までなかなかアップできなかったが、秘密兵器ができたので
これからは1週間で60点程度のアップが期待できる。

日本の古本屋、Amazon、そしてこのサイトを使って、うまく
棲み分けして当面は生き延びていけそうに思える。1年後
2年後がどうなっているか、その先を読みながら動いて
行かねばならない。

好きな一句を・・・

炬燵出て 早あしもとの 野河かな  蕪村

わが一句

満月を 凍りつくして 細き道  こうじ
秋の空なる八ヶ岳
2006年10月12日
10月8日、日曜日は店の前の通りではこの街一番のお祭で、
三連休の中日ということもあり凄い人出だったようです。
あまり人ごみがすきではないのと、騒々しい事が嫌いなので
毎年この日は店を閉めてどこかへ遊びに行ってきます。
去年までは信州方面へ山登りアンド温泉でした。
しかし、今年は当日になっても決まりませんでした。
所沢駅に着いたときでもまだ行き先が決まらず、はじめは
池袋から・・って思っていたけど、来た電車が高田馬場方面で
したのでこれに飛び乗り、坐った時にふと中央線で・・・とおもいつきました。
ともかく中央線で・・くらいしか浮かばず、東村山で乗り換えて高尾へ。高尾から鈍行で大月まで行ってみました。学生時代何度も乗ったこの鈍行列車懐かしかったです。
はじめて学生として親元から離れたとき、八王子から蒸気機関車に乗り新生活を迎えました。それがあとでわかったことは
そのときが最後の運行だったということでした。蒸気機関車に乗ったのはそれが最初で最後かな??

そして途中、この青い空と山の景色を見てるうちに
そうだ!小海線を回って東京へ帰ろうと決めました。昔の鈍行は
笹子もちを売っていて、それを何度か食べた事があったが、
その笹子もちも売ってはいなかったです。車内はただ無機質な
グレーの内装で、昔の面影すらなかったです。
車内で車掌から、小海線経由の東京都内行きの切符を買い、帰りは佐久平からの新幹線しかないと説明を受け、仕方なく言われるままに切符を購入したのですが、帰宅の時間を考えると丁度よかったです。
途中、甲府で知り合いの古書店に行きましたが、山交デパートでの即売展が近々あり、その仕事に追われているらしく、お父さんが何度も電話してくれたのですが、連絡がつきませんでした。
ご迷惑を掛けるのに気が引けるので早いところ店を去り
甲府で食事を取りました。山梨のホウトウは有名ですが
あまり好きではないのでそばで昼食を・・
そして甲府から小淵沢行きに乗り、小淵沢で降り街を散策したのですが、日曜日ということもあり、どこもシャッターが下りていました。死んだような、廃墟のような町の静けさでした。

小淵沢から13時22分の小諸行きに・・・
車では何年前かにも走っているけど、電車は30年ぶりくらいでした。
小淵沢を出て次の駅、見ると平山郁夫シルクロード記念館、
知っていればここで降りることもできたのですが、見る事ができませんでした。今になってもちょっと残念です。
そして清里に来る頃には、八ヶ岳の編笠、権現、赤岳が
くっきりと見えてきて、反対側には遠く富士山が見えました。
高校3年の時、ちょっとした軽い気持ちで家を出て、
家出とはいえないものの、そんな気持ちがどこかにあっが、
今考えれば一人旅だったのかもしれません。そんな遠い日のことを思い出しながら、山並みを見ていました。紅葉が始まりかけていました。

野辺山高原、中込、佐久平、この佐久平は昔はただの佐久だったと思いますが、新幹線ができて街の様相は一変しました。
どこにも面影がなくなりもうわからなくなりました。
小淵沢を13時22分に出て約2時間、ゆったりとした小海線の旅を満喫できました。
佐久平を16時12分の新幹線で上野まで、上野から所沢に着いたときはもう6時近かったです。
その所沢ではまだ祭の真っ最中で、サンバが丁度行進していくところでした。ものすごい人だかりでした。
全く疲れることもなく、秋の青空と清々しい空気を満喫したひとりの気軽な旅でした。

最後に一句

紅葉に 全土火の海 八ヶ岳  こうじ



ジャコメッティ展
2006年07月29日
7月20日、葉山にある神奈川県立美術館葉山館で、ジャコメティー展をやっているので見てきました。所沢から新宿湘南ラインで約2時間の旅、この葉山館ができた3年前の
初めての企画展も見に行きました。
ジャコメティー展、非常に疲れました。翌日になってもなかなか疲れが抜けていきませんでした。今まで様々な展覧会を見てきたが、こんな疲れを感じさせれた展覧会は初めてでした。翌日、何故こんなに疲れているのか、考えてみたら、それだけジャコメティーの作品の緊張度の高さが、見るものに高度の緊張感を強いるものであるとあとから感じました。
よく彫刻はわからないと言われますが、やはり解りにくいものです。それを知りつつ
しかしジャコメティーの魅力がどこにあるのか、この目で確かめたかったです。
今回もあまり予備知識を入れず、見たまま、感じたままをノートに取り、それを整理して
ここに書いていこうと思います。
第1章から第4章という構成で、部屋が分かれれていたものの、制作年代は主に
1950年代のものが多かったです。初期の頃のジャコメティーは、古代彫刻に興味を持ち、この古代彫刻がジャコメティーの晩年まで大きな影響を与えたように思います。
例えば、初期の作品に<女>という作品ですが、出る所が出て、引っ込む所が引っ込み
つまり捨てられる所を捨てて、簡略化と誇張を最初の手法にしてるように思えました。
さらに1934年製作の<頭蓋骨>という作品は、塑像かと思うが、これは口は大きく
削り取られ、眼は円柱を引っ込めたように表現し、鼻は少し三角状にとがる程度で
見るからに滑稽感がありました。
また1929年の<横たわる女>はひょうたんを半分に割り、そこに少し腕を添えたようなもので、これは遠くから見るとボリュームのある女性が横たわる姿です。
これも捨てるべきところを捨てて、単に形状のみで表現された女性像といってもいいと思います。
1927年のブロンズは圧巻でした。この作品の配置は、中央に父親の油彩、その両側に
ブロンズと彫刻された父親の顔があって、これがうまく対称的でした。
ブロンズは、顔を輪切りにして平面にし、そこに線刻で、眼、口、鼻などを刻んでいく。
この<作家の父>という3点の作品の違いは、そこにジャコメティの出発点があり、また
絵画と彫刻の融合の始まりでもあったように思えました。
ここまで来て、ジャコメティにとって、絵画とは何か、彫刻とは何か、美術とは何か
空間とは、見るとは、見られるとは、そして存在とは何か・・・というような疑問が
一気に浮かび上がってきました。
 この疑問の背後のあったものは、作品との距離のとり方でした。作品は、極小のもの、
細く削り取られたもの、ボリューム感のあるものなどざまざまで、見ているときに
その距離のとり方が一番重要なことに思えました。勿論小さなものは近くに寄るだろうし
大きなものはちょっと距離をとって見る事が一般的かもしれませんが、そう要求する
ジャコメッティは、彫刻を作るときに何を考えていたのだろうか?その究極の彼方に
彼は何を見ていたのだろうかと思いました。
 古代彫刻の発生は、簡単に言えば<見られること>を意識した時にはじめて
成立したと思います。それはまた神との<乖離>でもあったとおもいます。
1956年製作の<坐るアネット>という作品は、造形的には通常有り得ないほど
首が長く、腕も長い。同じ1956年の製作の<ヴェネッアの女Ⅲ>も首が長く、
腕が長く身体に融合し、足は極端に長く細い。
反対に1950年から製作の<台上の四つの小像>は台座の脚が長い割りに
そのうえの台座は厚く重量感を持ち、そしてその台座の上に小像が四体並んでいる。
この作品は遠近感を非常に意識した作品でした。
またこの間に彼は同時並行でボリューム感ある彫刻も作っていて
この1950年代は、極端な簡素化と肉付けの間を揺れ動きながら、彼が
辿り着くのは、更なる簡素化、極端化でした。1950年製作の<檻>はもう
人間を表現してるとは思えないほど簡素化の極地に辿り着いている。
ジャコメッティは、いつも真正面からの視点を要求していて、基本的には
遠景と近景ということを意識させられる。日本的な言葉で言うと
<彼はたれ>或いは<たそがれ>時のように、遠景の中であれは誰?と
ふと思えるようなそんな一瞬の邂逅・・・私たちはその時、その彼に
何を見るだろうか?
ジャコメッティの作品は、身体表現の簡素化のなかで人間存在を<在る>という
ことの本質に凝縮させて、遂にはその極北で<神>に近づきたいという想いが
なかったか?ふとそんな想いが彼の製作の中に見え隠れするように見えました。
彼が若い頃に出会った古代彫刻は、彼の晩年まで彼の美術思想に影響を与えた
ようにおもう。そして彼の作品は、古代彫刻に始まり、古代彫刻に終るという
その間に製作に対するながい悩みのなかで、しかし古代彫刻は彼によって、
新たな現代彫刻へ変貌を遂げたように思えました。
最後に作品の配置の方法には若干問題があったように思いますが
<台上の四つの小像>の展示の位置はあの場所以外考えられないくらい
外光との緊張感の中にありました。おこがましいのですが学芸員の方のレベルの高さを
感じさせてもらいました。有り難うございました。




夢のような・・
2006年06月24日
前の更新から2ヶ月、なかなか書けないです。
そのつもりにならないからかな?

それでも今日は非常にうれしい事があって、
この日の記念に
書いておこうと思います。
いいことって言うのは、内緒です。

それとスイミングのバタフライのこと
これ、スイミングスクールに通い始めた頃、
4種全部習おうと思ったんですが、
バタフライだけはどうしても難しく、
ただ力任せに泳ごうとしていました。
それでも泳げなくて、1年間、封印しました。
ただ時々、バサロキックやドルフィンキックを練習して
頭を振らず、肩から腰、そしてつま先まで流れが
移動できるように練習はしていました。
そして先日、1年ぶりにバッタのクラスに入ってやってみたら
これが・・・やはり力が抜けていて、力まないことで
簡単にバッタができるようになっていました。
泳がないことで泳げるようになる・・不思議な世界です。
いえ、フリーを1000m泳げるようになり、そこで力みが
取れた事が、バッタでの力みも消えたということだと思います。


あとはキックとカキのタイミングの問題です。
これがうまくいけば、うねりの大きなバッタ
になると思います。

では、2句・・・

川岸に 白鷺ひとり 人恋し

まだ咲きぬ まだまだ咲きぬ わが牡丹  こうじ

はなだより
2006年04月23日
なかなか更新できない日記
やっとその気になりました。
もう桃はとっくに終ってますよね。
今はハナミズキが綺麗ですね。それも赤の・・
昔夏になると、いたるところに蝶々が飛んでいて
赤い蝶はいなかったけど、あの蜆蝶が赤くなれば
まるでハナミズキのよう・・
いえ、ハナミズキを見ると、そんな風に子供の頃を
思い出してしまいます。ハナミズキの花柄や大きさ
そして開き方がまるで蝶々が止まってる様な
そんな想像を引き起こしてくれます。そして
いつかあの赤いハナミズキが一勢に飛び始めたら・・・と
おもうと、・・・

もうひとつ子供の頃の思い出・・
親の実家に行く時、いつも白い帽子を被っていきました。
なぜかこの白い帽子が好きで、お出かけ用にのみ使いました。
その時にとった写真が一枚あるけど、今は手元にない。
で、この帽子がすきという思いは、自分が被るという行為から
女性のほうへ転化していきます。これも夏に近いです。
夏の幅広の帽子、麦藁帽子を上品にしたものを着けた女性に
今でもあこがれてしまいます。そうして更に帽子を被る女性へ
一般的に転化していき、街で帽子をつけた女性を見ると
見とれてしまいます。今の女性は自分の好みをよく知っているので、みなよく似合っていて綺麗です。
何故かは秘密ですが、これに眼鏡をかけた女性だったとしたら
これはもう惚れてしまいたくなります。
めがねと帽子・・思春期の複雑な体験・・・

では一句・・

ハナミズキ 蝶となる日の 春の雲  こうじ
桃だより
2006年03月16日
花の中では、断然もも・・
この時期、梅が咲き、桃がひらき、桜が舞う。
梅も桜も嫌いではないが、断然あの桃の花がいい!
あの濃い花の色は、その存在を強く主張するのに
なぜか一歩下がったような奥ゆかしさを併せ持つ。

住まいの近くにもも畑があり、この時期は、いつ咲くか
そればかりが気がかりとなる。
今朝、店まで歩いてくる途中で、七部咲きの花を発見!
これはもう携帯に撮るしかなっかた。

子供らが 飛び去り行きて 桃の里   こうじ

この頃、全然更新ができていない。はなはだ情けない。
三つも四つも仕事を抱え、最後になってしまってる。
毎日、5個の更新ができない。簡単なのにできない!
店もまだまだ乱雑なまま・・・
大事な店
2006年02月20日
先週の神田での書窓展の後、○○さんから風邪を貰って
一週間近く直らない日々が続いた。初めの3日間は、40度近い熱で
寝ているしか解決方法が無く、ひたすら寝てた。それでも仕事もあるので店に来ると、またまた熱が上がって、こじれていく。
この年になって、40度近い熱は、相当の体力を奪われる。
そして回復力も低下する。高齢での風邪は命取りになるかもしれないと危惧した。
 この一週間は店について考える期間でもあった。結論から言うと、この店の撤退はやめたということ。
ここ5年くらい店の整理すらしていなくて、ただ乱雑において
自分で手狭になったと口にしていただけかもしれないと思った。
倉庫もただ置いてるだけ・・これをネット用の倉庫に変身させて
もっと利用頻度を上げれば、倉庫が立派な店にも変わってくる。
店はお客様との付き合いがあって初めて店・・
開店当初の、あの売れた時のうれしさを忘れてはいけない・・そう思った。まず店の整理から開始。不要なものは市場へ出品して
棚も入れなければ・・
改めてもう一度、お店・・ここから始めてみよう。
小さな店
2006年02月06日
古本屋を始めて22年かな?初めは5坪の店、それでもそこに入れる本が無かったから、毎日棚の本の入れ替えができた。いえ、置き換えてみた。そこで5年、いや、7年、大きな店が欲しくて現在の地へ。30坪、倉庫は7坪、15年になる。当初はやはり本が少なく
何とか頑張って増やしていった。文学、美術、哲学、歴史・・
かなり専門的な、アカデミックな店になってしまった。でもこの間に、少しづつ面白いものも集めていた。神田の書窓展に入ってからは本当に古いものを集めるようになり、古書店になりつつある。しかし、いまや店は手狭になってしまい、通路の両側に本が積みあがってきてしまった。そして身動きが取れない状態でもある。通信手段の変化、日本の情勢の変化のなかで、古本屋は今必死に生き残りの道を探している。店売り、即売、目録・・
やれることはすべてやってきて、でも思うような結果が出せていない。ネット通販はサバイバルゲームの中で生き残りをかけた
必死の価格競争の最中・・
でも、もうこの道しか残されていない。そう決意した。
店をたたみ、現在のおおよそ倍の70坪の倉庫とマンションの事務所でこれからの15年を生きていくつもりになった。これで入力点数も3倍くらい増やせる、経費も削減できる。時間に余裕ができる。でも、いつかまた3坪か4坪くらいの店をやりたい。目の前にお客さまがいて始めて商売かなっておもう。その時は何時来るのか。
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