2007年12月09日
1916年、大正5年12月9日(土) 午後6時45分永眠 享年50歳
慶応3年2月9日に生まれて、その50年後に亡くなっている。以下の文章はある句誌に書いたものを転載しました。
山路を登りながら、かう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角この世は住みにくい。
これはご存知の有名な『草枕』の書き出しだが、漱石がこの草枕の旅を友人の
山川信二郎に誘われて玉名郡小天村の赴いたのが、明治31年の暮の27日。
石神山北側を登り、荒尾山の南側の鎌研坂を登り、通越峠を越えて、本村に
出て、また熊ノ岳の南側の野出を通り、南越・八久保を経て小天村に出たと
言われている。この地の旅館に正月の4日位まで逗留している。
明治29年の春、漱石は松山の中学を退任後、菅虎雄の斡旋で第五高の講師に
就任した。その後の4年と3ヶ月の熊本生活が始まる。
この熊本は当時30歳だった漱石にとってはまさに慌しい青春のひと時で
あったようで、中根鏡子との結婚、実父直克の死、鏡子の流産、そして鏡子の
投身自殺などを初めとして、公私に渡り忙しい日々であった。
また英語研究のため文部省第1回給費留学生としてイギリス留学するまでの間
実に六回も転居している。しかしそんな熊本時代、寺田寅彦や山川信二郎、
また漱石の招聘で旧知の人々が続々と五高に集まってくる。その中でも特に
山川信二郎との交誼は特別なものがあったようで、義父・中根重一を介して、
今の一橋大学の前進である東京商業高等学校の校長、小山健三から年棒千円、
高等官六等でという招聘を断っているところからも伺える。
この五高での漱石の月給は百円、当時の中学教師が25円前後だったことから
この千円というのは本当に破格の給料だったし、また生活的には義父の中根から
生活費が不足してるなら援助しようとも言ってきてるのに、漱石は山川信二郎への
信義のために就任を断っている。
さてこの山川信二郎、漱石の文献を見ているとこの時期にしか顔をださない。
『五高五十年史』を見ても、
帝国大学文科大学英文科第3回卒業生、4月10日第五高に就任
としかない。
五高着任の4月10は漱石の自宅に泊まり、暫く寄宿し、その後10月29日
福岡・佐賀へ出張する漱石の英語授業の視察に伴い、この年の暮の草枕の旅
そして連名での礼状を前田家へ出し、同じ明治31年、また草枕の小天温泉へ
狩野亨吉、奥太一郎、漱石、山川信二郎らと5人で出かけ、明治32年、
山川とふたり阿蘇中岳へ登り、この時の山行でのちに『二百十日』が生まれる。
そして山川信二郎が第一高等学校教授に就任するため、明治32年9月に
熊本を離れて以降はあまり知られていない。
先ほどの『五高五十年史』とは別に、昭和34年に刊行された『五高人物史』の
中でも、校長だった嘉納治五郎、国史の黒板勝美、上田万年、政治家の重光葵など
そうそうたる人物の中、漱石や寅彦などの記載はあるものの、山川信二郎の記載は
一行もない。
ちなみに資料収集では抜群だった江藤淳の『漱石とその時代』の「草枕」の項を
開いても山川信二郎に触れる記載は全くなく、山川と小天温泉に出かけたとあるだけで
山川信二郎の人物については書かれていない。またその他『草枕』に関する評論等を
見ても、山川という人物には全く触れられていないのである。
漱石が立ち寄ったとされる峠の茶屋の婆さんの顔写真や投宿した旅館の主人の
前田案山子やその娘の卓子などのついては書かれているのに、『草枕』関係の
資料を当たっても全く記載がない。さらにインターネットで検索しても、『草枕』の
同行者として登場するが、そのヒット数が極わずかで山川信二郎の人物は、
全くといっていいほど分らない。
この時期の山川が第一高等学校へ招聘される経緯を書いておくと、友人・狩野亨吉が
明治32年第一高等学校に就任した後、その狩野から山川を第一高等学校へ招きたいと
言う手紙を受取り、第五高等学校側と漱石、そして山川本人と交渉が続き、学校側も
折れて山川の意向を汲んで第一高等学校への就任となる。
その頃の漱石の狩野へ宛てた手紙に
小生も山川に別れては学校の為には相談相手を失ひ閑友しては話し相手を失ひ
当人には何とも申さねど心裡は大いに暗然たるものの有之候ども是も浮世故
不得巳次第と存候
と心情を吐露している。そして7月7日、狩野から山川が第一高等学校に採用された
旨が届き、その9日仏教学者・松本文三郎を訪れて、山川信二郎の今後のことに
ついて相談する。そこで漱石は山川が家族の事で頭を悩ませている事を知り、
狩野亨吉あてに
山川氏の周密にて多少心配家なるは御熟知の如く候然る処へ熊本に厭きて来て
一日も早く当地を去り度念非常に強くなりしのみにて別段臆病と申す程の
事にも無之又事務のとれぬと云ふ事は毛頭無之と存候
と書き送っている。漱石の山川を思うやさしい心情がよく出ている。
そして転任目前の山川とその9月に阿蘇中岳へ登ることになる。そして
やがて『二百十日』に結実する。こののち正岡子規の手紙に山川の消息がある。
留学後、漱石は山川へ宛てて草枕のたびを懐かしく思い出しているというような
書簡を送っている。
ところで荒正人の漱石研究の年譜によると、明治35年『二六新報』で山川信二郎の
家庭の内情が暴露する。これにより山川は第一高等学校を辞任する。とある。
江藤淳編集の朝日小事典「夏目漱石」の山川の項を見ると、山川は一高在任中、同僚の
教師との間に誤解が生じ、事件を起こして退任したという、と書かれている。
漱石がまだイギリス留学中のことである。この事件がなんであったのかはこれも
伏せられている。
明治36年の菅虎雄宛の手紙に、大塚保治の三女が死んだために、借りていた金の
返却を求められ、山川信二郎に借りて返却した事が書かれている。第一高等学校を
辞職した山川とこの時点ではまだ交際が続いていたものと思われる。
ところでご存知のようにあれだけ仲のよかった漱石と山川はその後何があったのか
漱石によって断罪され、絶交状態になる。しかしその経緯は今もってあまり知られ
ていない。ただ狩野宛の明治39年10月23日の手紙に「余の性行は以上述べる所
に於いて山川信二郎氏と絶対に反対なり」とだけ記されている。
今手元に大正11年刊行の『帝国大学出身録』がある。革装の分厚い本である。
この中には帝国大学五大学の出身者の記録があり、山川信二郎も書かれている。
◎ 山川信二郎 東京都本郷市神明町11
君は埼玉県に原籍を有し明治28年東大文科大学英文科を卒業し後に
熊本第五高等学校教授に勤務したるも退職以て今日に至る
この出身録、大抵は2・3行で、東大総長になり最後漱石を解剖した長与又郎で
さえも3行である。あの「アドレナリン」などを発見した高峰譲吉が10行である。
それを考えると、山川がよくも掲載されていたものである。
8年前この出身録を元に、埼玉関係の人物誌を調べていくうちに、思いもよらぬ
出身地を発見する。この所沢から程遠くない地である。
故人の名誉を考えると、これ以上は記載しない方がいいのかもしれないが
山川家は医者の家柄で、父親は明治維新後埼玉県の県令になっている。
埼玉県は熊谷県や品川県、大宮県、忍県などが合併変遷後埼玉県になるが、
その県令になった人の三男が山川信二郎である。